2017/04/20
「つながる」ことは「備える」こと
4.東日本大震災発災
2011年3月11日、東日本大震災発災。東京電力第一原発(1F)が津波により冷却用電源を消失したことで炉心があらわになる可能性が高まり、政府はまず10キロ圏内住民の避難命令を下しました。1Fに隣接する富岡町は全町域が避難の対象となりました。富岡町も津波被害により、24名の方が命を落としました。富岡町の代表的な風景として有名だった小浜海岸のロウソク岩もこの津波で全て消え去ってしまいました。。
後日避難してきた町民の方々とお話をする中で彼らは当時のことをこう回顧していました。「避難訓練みたいなもので、何日かすれば戻って来れるだろう。誰もがそう思って、着の身着のまま(持ったのはお財布くらい)で避難指示に従ったんだよ」と言っていました。まさかそれが、5年以上も戻れなくなるとは知らずに…。
特に1Fに隣接している夜ノ森地区は今も立ち入りが禁止されており、夜ノ森駅の6000株のつつじは放射性物質の濃度が高いため現状保存は難しく、昨年末に伐採が決まってしまいました。自慢の景色を誰も再び見ることなく…。
5.1万2000人避難
こうして、1万5996人の富岡町民は自らの故郷を離れることになります。ほとんどの町民が向かったのが、隣接する山村地域の川内村。私たちが調査を行ったところ、3028人の村に、実に1万2000人もの富岡町民が避難していたといいます。先ほども述べたように富岡町と川内村は海山一帯の地域。普段からの交流のある川内村の人たちも富岡町の人たちの有事を聞きつけ、受け入れの支援にあたったといいます。私たちが数日後に訪れることになった川内村小学校もその一つでした。
6.受援、合同対策本部
大部分の富岡町民が避難したと同時に行政機能も富岡町からの避難を余儀なくされます。当時も川内村村長だった遠藤雄幸氏は富岡町から避難してきた住民にすべての施設を開放し、役場内のスペースも富岡町に提供し、ここに富岡町臨時役場が設置されました。そして、この有事にあたるため、富岡町と川内村の合同対策本部も設置されることになります。まさに普段から交流のあった地域ならではのお互いさまの精神がそこにはありました。でも、先ほども述べたように、「合同対策本部も数日のうちに解散することになるだろう、と誰もが思っての行動だった…」(川内村総務課長(当時)談)のです。
(続く)
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