1991年、ハイウェイ80号線沿いに並ぶ破壊された車(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Demolished_vehicles_line_Highway_80_on_18_Apr_1991.jpg)

今回も前回に続き「1990年8月2日イラク軍のクウェート侵攻の対応に関して」の事例紹介をしながら海外危機管理を見ていきます。今回の第20回は在クウェート日本大使館に避難した日本人223人がイラクに移送され、イラクで捕虜として政治的拘束の身となるまでの動き及びそこから得られる危機管理上の教訓を見ていきます。

Ⅰ.事象の整理

1.クウェートからイラクに移送

8月9日
イラク側から、各国大使館に二週間以内に首都バグダッドに移るように指示。日本を含む各国は拒否。

8月20日
イラク側から改めて「24日までに大使館を閉鎖するように」と指示。

8月21日
(1)中山外務大臣から「クウェートではもう保護できないので、イラクに行くように」という勧告が出され、深夜にイラク行きの飛行機の座席が用意される。日本人の多くは、食料不足やクーデターが心配なイラクに行くのを恐れ、日本大使館の無電を使って「イラクに行くのは会社の命令か?」と本社に問い合わせる。

(2)T氏は本社の指示を仰がず、あくまで自分の意志でイラクに行くことを決める。その決断の背景は「戦場になる可能性はクウェートの方が高く、サウジアラビアに脱出ルートはない。それにイラクには知人がいる(注:イラク国営石油公社SOMOや取引先の日本商社など)また、「家族の命がかかっている。たとえ死んでも自分の決断なら納得がいく」と考えたと述べている。

8月22日
(1)スーツケースに子供用の羽根布団、ラジオ、ビスケットなどの食料、水筒などをつめて移動準備をおこなう。カメラはスパイ容疑がかかる可能性があるので置いていくこととする。飛行機に搭乗後一時間半でサダム国際空港に到着。日本大使が迎える。その後、イラク側が用意したバス3台(すだれで外が見えない工夫がされていた)に分乗。1台ずつに日本大使館員が同乗し、イラクの平穏な状況などが伝えられる。

(2)マンスールメリアホテルに到着。日本大使館が予定したパレスタインホテルと異なるホテルであったため、日本大使館に確認するとイラク側に軟禁されたことを知る。日本大使館は抗議するもイラク側は耳を貸さず、大使館員を部屋の外に出させる。この晩遅くクウェートに残っていた13人の日本人が第2陣としてホテルに来る。

8月23日
(1)第3陣、第4陣がサダム国際空港に到着。避難の日本人家族の中には妊婦もいたが、空港でいきなり銃を突きつけられてホテルに連行された様子。バグダット市内のホテルに軟禁された邦人は合計で223名。

(2)T氏は以前からホテルに軟禁されている英国人が4日おきぐらいに、製油所、兵器工場を転々とされている情報を入手。大きな不安が日本人を襲う。

(3)ホテルで軟禁状態にあったT氏は、昼食中の監視人の中にイラク国営石油公社SOMOのS氏を発見。S氏とは旧知の仲で、彼は「お前を探してたんだ。何かできるか、金は大丈夫か」と身を案じてくれる。「すぐに日本に帰れるか」と聞くと、S氏は困った顔をして「それは難しい」と答えた。

8月24日
(1)この日の午前中までは、日本人はプールで泳げるほどのゲスト待遇だったが、午後に自衛隊派遣のニュースが出ると、イラク側の態度は急変し、「日本人にも欧米人と同じように、責任をシェアしてもらう」と言い始める。

(2)夜になると、日本人のパスポートを没収。さらに、軍事施設などに分散させるため班分けを命じてくる。単身の男性15名のグループ、10名のグループなど、全部で16班とするきめ細かい指示があった。

(3)T氏の家族だけは、1家族1グループとされ、移動時刻は25日夜9時で、バグダッドから45分くらいの場所に連れていくという説明がされた。T氏夫人は他の日本人から離れてしまうことに非常に不安を感じていたが、A石油のT所長が「貴社はイラクからずっと石油を買っているから大丈夫。他に日本人がいないのは不安だろうが、先に出してくれる可能性もあるから」と励ましてくれる。

8月25日
(1)国連安保理が限定的な武力行使を容認する決議を採択。これに呼応するように、午前中から各グループに分けられた日本人はバスに乗せられ、軍事施設、ダム、製油所、化学兵器工場へ「人間の盾」として移送がはじまる。

(2)21時頃、T氏の家族(夫妻と子供2名)の移送がカーテン付きの大型バスで予定通り開始。T氏の家族以外は5人の監視人のみが同乗。到着場所は、建築現場のバラックのような場所であった。到着後入り口に入ると、中に10メートル四方の庭があり、その先に3棟のプレハブハウスが建っていた。

(3)監視人が、既に人質としてクウェートから連れてこられた別の人質を紹介。クウェート軍に戦車の操縦を教えていた英国軍人2家族、英国人の神父夫婦と新婚カップルなど、T氏家族を含め18人が収容されていた。