1991年、ハイウェイ80号線沿いに並ぶ破壊された車(出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Demolished_vehicles_line_Highway_80_on_18_Apr_1991.jpg)

今回はイラクから日本に移送されるまでの動きとそこから得られる教訓を見ていきます。

Ⅰ.事象の整理

1.イラクからの一人だけの解放

8月30日
日本政府が中東貢献策として10億ドルの支援を決定。T氏はラジオジャパンでこのニュースを聞き不安に。解放されるはずの家族がまだバグダッド市内のマンスリーメリアホテルに足止めされており、日本政府の行動による影響が心配になり、30、31日と全く食欲がない状況。

9月1日
(1)朝食後のニュースで、日航機がアンマンに来ており、今日、女性と子供が解放されることを知る。喜んでいるところに監視人が来て「すぐに、5分で仕度しなさい。日本人男性も全員解放だ」とT氏に伝える。

(2)T氏はいつもの外が見えないマイクロバスで、マンスリーメリアホテルに到着。ホテルの玄関に、SOMO(イラク国営石油会社)のS氏が外交官ナンバーの2トントラックで迎えに来ていた。S氏は「遅くなって悪かった。お前がどこにいるかわからなかったんだ。今行けば、奥さんと子供が乗る飛行機に間に合う。急ごう。」と言ってパスポートを返してくれた。T氏はこの時初めて、日本人男性の解放が自分一人だけと知る。

(3)その時、ホテルの監視をしていた情報省の人間が「なぜこいつをつれていくのか」と怒ったようにS氏に詰め寄ってくる。S氏が手紙大の書類を見せて何か言うと、相手は敬礼をして離れていった。

(4)S氏いわく「大統領の許可書だよ。“彼”に嘆願書を書いてもらったんだ」と。”彼“とは、7月のOPEC総会で、T氏に「イラク軍の展開は単なるプロパガンダだ。心配することはない」と言っていたSOMOのドクター・ラムジ総裁。ドクター・ラムジ総裁は、バグダッド大学を首席で卒業した秀才なテクノクラートで、婦人も同窓の医師。夫人は昔からサダムフセイン大統領率いるバース党の党員で、サダムフセイン大統領の息子のウダイ氏の幼少期からのかかりつけ医であった。

(5)T氏からS氏に「日本に帰国したら、男でなぜ自分のみが解放されたか必ず聞かれるが、どう答えたら良いか」と質問。自身の解放にSOMOがかかわっていたことが表面化すればSOMOをはじめ関係者に迷惑がかかることを懸念したのが質問の理由。S氏からは「SOMOとのグッド・リレーション・シップで良いじゃないか」と笑って答えが返ってくる。「マスコミにもそう言って良いか」と念を押すと「いいとも」との返事だった。

(6)サダム国際空港で、T氏は家族と再会した後、S氏に頼みSOMOのドクター・ラムジ総裁にお礼の電話をする。SOMOのドクター・ラムジ総裁いわく「こんな状態なので、解放が遅れてすまなかった。貴社の社長以下皆様に宜しく伝えてほしい」と返事。また、バスラに避難しているはずのクウェート事務所のH運転手に連絡をとるも通じず。S氏に無事を伝えるように伝言を依頼して別れる。

(7)サダム国際空港でこの日解放された日本人の女性と子供(69名)や欧米人家族でごった返していた。空港では、緊張が解け貧血で倒れる英国人女性もいた。出発は数時間遅れ、午後9時15分にヨルダンのアンマンに向け出発。約1時間でアンマン空港に到着。クウェート事務所の上司が迎えに来ており、着替えを手渡す。一夜で髪が真っ白になった婦人と子供たちの顔や手には虫にかまれた跡が痛々しい。T氏家族は、すぐに待機する日航特別機に向かう。日航特別機はそれから一時間後に日本に向け出発する。