札幌時計台(ホィーラー設計)

高等教育者として

札幌農学校の講義は、カリキュラムをマサチューセッツ州立農科大学と同じものとし原則として英語で行われた。アメリカ東北部ニューイングランドに花開いたリベラルで宗教心(ピューリタニズム)の厚い社会環境に育ったホィーラーは、学生に「独立心」「自由な精神」を教えた。彼は「独立」(Independence)との言葉をことのほか愛用した。彼は高等数学、土木工学、英語を担当した。内村鑑三(キリスト教伝道師、文明批評家)、新渡戸稲造(国際経済学者)、廣井勇(土木工学者)、宮部金吾(植物学者)ら後に「天才級」の才能を発揮する学生11人は同校2期生であり、クラークの去った後の入学でクラークの指導は受けていない。

ホィーラーは雄弁術や英文学も教え理工科や農学に偏った教育をとらず全人格的な教養主義を目指した。人類愛と独創的発想こそが教育の原点であり、東洋的暗記主義や権威主義は学問の進歩をもたらさないことを教えた。クラークの帰国後、彼はクラークの年齢のほぼ半分に過ぎない26歳の教頭として学校運営の最高責任者となった。2期生たちは4年間の学生生活のうち3年間、教頭ホィーラーの教育方針のもとに勉学や学外活動に励んだ。キリスト教の洗礼を受けた彼らは、キリスト教徒として生きていくことを誓い合った。ホィーラーは大自然の現場に学生を連れ出し自然観察や測量の実習を行っている。「大自然こそ最高の教師である」と教えた。学生と現地測量に出かけて渓流に落ち同行のアイヌ人青年に救出されることもあった。それ程、彼は北海道内をくまなく歩いた。

気象観測を重視するホィーラーは講義の中でドイツの天文学者ヨハネス・ケプラーの言葉をよく引用した。「自然は美しい運動の法則を持っており、それは観測データを分析することにより見つけることが出来る」。「ケプラーの三法則」により近代科学の最初の扉が大きく開かれたことも教えた。前途有為な青年の心の窓を大きく開いたのである。

彼は学校の「年次報告書」の中で、日本の学問、教育、北海道開拓について「古い制度や思想から脱却すべきである」と文明開化を急ぐ必要性を助言している。国家観では注目すべき意見を示す。

「自主・自由の各国にあっては人民は常に第一に位し、政府は必ず第二に立つものとす」。

彼は期せずして「人は何をなすべきか」を教えたのである。後の東京帝大教授廣井勇はホィーラーの人格的影響から出発して師と同じ土木工学の道を歩んだ。ホィーラーが若い廣井に伝授したエンジニア精神とは何であったのだろうか。それは敬虔なクリスチャンとして人類に幸福をもたらすことを目指し、そのために人類愛の精神を磨き、この精神にそって高度な土木技術を習得することであった。Civil Engineering (土木工学)とは元来こうした倫理観を含んでいる。