2025 年を振り返ると、世界各地でレッドラインが「無視され」「じわじわと侵食され」「結果として正常に機能しなくなりつつある」姿が浮かび上がる。レッドライン(Red Line)とは、外交や軍事の世界で「越えてはならない一線」を指す。この線を越えれば、相手国による武力報復や制裁、あるいは取り返しのつかない被害が待っているという、最後通告の境界線である。冷戦期には、核戦争を回避するための不可視の防波堤として機能し、恐怖の均衡を通じて世界秩序をかろうじて支えてきた。米国によるイラン本土の核施設攻撃、インド・パキスタン間の武力衝突。これまで「まさか起きないだろう」と見なされていた事態が短期間のうちに連鎖的に発生し、かつて地図上に引かれていた太い赤線は、無数の足跡によって踏み荒らされ、見えにくくなった。

地政学だけではない。気候変動は許容限度を超え、もはやレッドゾーンに突入した。そして日本に限れば高度成長期に建設されたインフラが老朽化し、これまたレッドラインを迎えている。そして生態系においても動物と人間を隔てるレッドラインに大きな変化が生じている。
 

Don't poke the bear(熊を突くな)
レッドライン上での駆け引きが日常化

冷戦後、アメリカの外交・戦略論議では「Don't poke the bear(熊を突くな:寝た子を起こすな)」という表現がしばしば用いられてきた。熊はロシア(旧ソ連)の象徴であり、過度に刺激することで核戦争などの危機を招きかねないとの認識に基づく。特に1990年代以降、NATO拡大や軍事演習、経済制裁などを行う際、ロシアを過度に刺激しないよう抑制的な方針を支持する声と結びついてきた。しかし、2025 年の国際情勢を見る限り、ロシアに対しては、もはや「刺激」の度合いを見極めることは難しい。いかに外から突っつかれようが、経済制裁や国際的孤立を織り込んだうえで、自らの論理と時間軸で領土という餌場を少しずつ削り取り続けている。

相手が本気で襲い掛かるレッドラインの見極めが、今や日常的な外交やビジネスの駆け引きになりつつある。中東では、2025 年6 月に米国がイラン本土の核関連施設を空爆し、核施設攻撃という「タブーライン」に踏み込んだ。南アジアでは、4 月のパハルガム観光客襲撃事件を起点に、インド・パキスタン両核保有国が実際の武力衝突に至った。東南アジアでは、カンボジアとタイが国境を巡る武力衝突に至り、10 月のクアラルンプール和平合意を経ても、11 月にはタイ側が合意の履行を一時停止するなど、緊張は収束していない。

アジアに視線を移せば、11 月には高市首相が、台湾有事は日本の「存立危機事態」となりうると国会で答弁し、中国外相は「日本は踏み越えてはならない一線を越えた」と主張し緊迫感が高まっている。世界的に「一線を越えたら終わり」という単純な世界観は崩壊し、常にレッドライン上での駆け引きが行われることが常態化している。

こうした各国間の駆け引きに、企業のサプライチェーンは常に影響を受ける。

企業の危機管理・BCP 担当者にとって重要なのは、自社にとっての「地政学的レッドライン」を定義するとともに、さまざまな信頼できる情報をもとにモニタリングを行い、駐在員の撤退、操業の停止、さらには調達の見直しの判断ラインを見極めることだ。

制御不能になった「自然の熊」と、
レッドゾーンに突入した気候変動

熊のメタファーは、2025 年の日本国内においては、より物理的で切実な形で現れた。本物の熊と人間の生活圏を隔てていた「生態系としてのレッドライン」の決壊である。熊の出没は過去最多ペースとなり、死者は2025 年11 月末時点で13人と過去最高になった。市街地への出没が頻発し、店舗や観光地、物流拠点周辺などが一時閉鎖や規制される事態もあった。企業活動への影響は、もはや地方の問題と片付けられない。

しかし、こちらも昨日今日に始まった話ではない。戦後の拡大造林政策により広葉樹林が針葉樹の人工林へと置き換えられた結果、熊の餌資源が減少したことに端を発し、その後絶滅が危惧されると狩猟が制限され、個体数は回復したが、その間に「里山には食べ物がある」という学習が親から子へと継承された。温暖化による冬眠期間の短縮がさらに拍車をかけているとの指摘もある。ハザードの構造が変わっているのに、人間側の社会システム(土地利用・防護策)は旧来の前提にとどまったままだった。

同じ構図は、気候変動にも見て取れる。世界全体では、熱波による年間の熱関連死は55 万人近くに達するとの推計もある。日本でも、熱中症による死亡者数は毎年、高止まり状態で、2024 年は6 月から9 月までの3 カ月で2000 人を越えた。2025 年はさらに高い数字になるとの懸念もある。レッドラインを越え、まさにレッドゾーン内に突入している状態だが、政府も企業も、危機意識が高い状況とは言い難い。

インフラが危機を引き起こす時代

インフラの老朽化もまた、静かにレッドラインを越えつつある。2025 年1 月、埼玉県八潮市で発生した大規模な道路陥没は、120 万人規模の生活基盤に影響を与えた。高度経済成長期に整備された膨大なインフラが一斉に寿命を迎えつつあるなかで、「どこがいつ崩れるか分からない」という不確実性は、企業物流・通勤・サプライチェーンにとって致命的になり得る。大規模災害を想定した大がかりなBCP は確かに重要ではあるが、インフラ途絶という中規模リスクが多発している現状を踏まえ、平時の業務に組み込める「日常型BCP」を合わせて構築していくことが求められる。