慶喜作の油絵(松戸市戸定館所蔵)

芸術愛好家の感性

明治2年(1869)9月、<敗軍の将軍>慶喜は謹慎を解かれ、郷里水戸から徳川家の新封地である静岡に移った。慶喜の第二の人生(隠遁)の始まりである。以後、慶喜は歴史の中で永久に姿を没した。静岡では、かつて代官公邸であった屋敷に住んだ。隠棲したといっても、慶喜はこの時数えでまだ33歳でしかない。壮健な慶喜には、その後長い春秋が待っている。慶喜は政治や俗世間との交渉を一切拒否し、才能に任せて趣味の世界に没頭した。何よりも好んだのが大弓、打毬(だきゅう)、投網それに鉄砲猟、放鷹(ほうよう、鷹狩)であった。さらには宝生流の謡曲や囲碁を稽古し、油絵・書道にも挑んだ。彼は何事にも徹底して取り組む教養人・趣味人である。慶喜は天性多芸の凝り性であり、できぬことのない知識人だった。

私は慶喜の絵画(油絵)に注目している。芸術的感性が映える作品が多く、傑作も少なくない。彼は幼少のころから絵を描くことが好きで、一橋家にいる頃も奥絵師狩野探淵を呼んで山水画を学んだ。慶喜がそれ以上に興味を持ったのが油絵(洋画)である。幕末期の油絵はまだ初歩的段階に過ぎなかったが、彼は旧幕臣の画家中島仰山(鍬次郎)から進んで手ほどきを受けた。画材がなかったため、カンバス、絵の具などの油絵具、絵具入れなどを自ら作っている。図録「没後100年 徳川慶喜』(松戸市戸定歴史館刊)を参考にして、作品の一部を見てみよう。風景画や静物画が大半だが、西洋画法の遠近法、陰影法、油彩技法を完璧にマスターしている。

「西洋風景」という一連の作品は深い森をバックにした湖畔の石造り建築を描いている。見たことのない西洋の湖岸風景をボリューム感あふれるタッチで描いている。西洋の田園風景を描いた「風景」と題する作品群や「西洋雪景色」さらにはオランダの田園を思わせる「風車のある風景」など、いずれも秀作である。斬新な構図、のびのびした筆のタッチ、色彩感覚、何よりも静かなモチーフは、慶喜が<最後の将軍>として権謀術数の渦巻く幕末の最高政治指導者であったことを忘れさせる。
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彼は旧幕時代から自身が写真に納まることを好んだが、退隠後は撮影機を科学的に研究し現像するための暗室の中で徹夜することもあった。風景写真が好きで静岡近郊の四季折々の景色はほとんど撮った。洋風の刺繍にも凝ったようである。
彼の名誉回復は勝海舟ら一部旧幕臣の工作により、比較的順調に進む。明治35年(1902)6月公爵(最高位)を受爵した。同年7月京都に赴いた彼は孝明天皇陵に赴いている。彼の悲願が成就した日であった。

将軍として国を指揮した慶喜は、謹慎・隠居生活を強いられた時、様々な創作活動(芸術活動)に没頭することで、精神的発露の場を見出した。それは野に降り、詩書画に精神の自由を求めた、中国の文人士大夫の「世捨て」に通じまいか。書画同様に青年期から最晩年まで続けた慶喜の和歌を、最後に書きとどめておきたい。

楽しみは おのが心に 有物を 月よ花よと 何求むらむ

彼は海舟らを除き旧幕臣には原則として面会を許さず、40年余りの孤高で自適の歳月を送って77 歳の天寿を全うし、従一位勲一等公爵徳川慶喜として死去した。大正2年(1913)11月22日午前4時であった。葬儀は徳川家伝統の仏式をとらず遺志により神道の様式でとり行われた。

参考文献:「徳川慶喜と賢侯の時代」(会田雄次など)、「没後100年 徳川慶喜」(松戸市戸定歴史館刊)、筑波大学附属図書館文献。

(つづく)