インタビュー 災後の日本をどう生きる
東京大学名誉教授 御厨貴氏

政府の復興構想会議のメンバーとして多くの提言を行った御厨貴氏

東日本大震災の直後から政府の復興構想会議のメンバーとして被災地を訪ね、地域の再生や支援の在り方、強靭(きょうじん)な国づくりに多くの提言を行った東京大学名誉教授の御厨貴氏は当時、これからの日本の行方を「戦後が終わり、災後が始まる」と表現した。あれから10年、社会はどう変わったのか。いつか再び起こる巨大地震を巡り、政治・行政システムや技術環境、産業構造、また市民の生活や仕事はどう進歩したのか。これまでを振り返りながら、現在露呈している問題、今後の展望を語ってもらった。(本文の内容は昨年12月14日取材時点の情報にもとづいています)

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「成長モデル」の夢に引きずられた復興

――東日本大震災を経験した日本社会の変化を「戦後」から「災後」への移行と表現されました。振り返って、この10年の変化をどう見ますか。
当時、日本の経済社会はもう右肩上がりではないといわれていたものの、実際には戦後の成長モデルを引きずっていました。各地のまちづくりも、人口減少や過疎・高齢化の問題を本気で考えてはいなかった。そのため真っ先に思ったのは、震災によってこれまでの流れが大きく変わるだろうということでした。

成長モデルとはいよいよ別れを告げ、これからは人口減少を前提とした縮小モデルに転じなければならない。そのことを『戦後が終わり、災後が始まる』と表現しました。そして災後社会では、開発から取り残され過疎が進行する東北の沿岸地域こそが最先端になると考えたのです。

人口をはじめ雇用、産業、あらゆるものの縮小を前提にしながら、いかに町や村の「復興地図」を描くか。復興構想会議のテーマはそこにありました。戦後モデルからの脱却と災後モデルの構築です。ところが、地元の自治体にはなかなか受け入れられなかった。

震災から1年未満の岩手県大槌町

復興予算が通って被災地を訪れたとき、市町村の復興計画を見ると、どれも人口増加を前提とした成長プラン。被災から転じ地域を発展させる、最低でも現状復旧、縮小などもってのほか、そんな考えが透けて見え、首長に「商業施設など造っても人は来ない」というと「縮小プランなんか出したら次の選挙に受からない」と怒られました。

――現地とは最初から復興に対する意識のズレがあった、と。
戦後モデルの再来です。ただ、数年後に再び被災地を訪れると、現実にはやはり自治体が思い描いた成長は実現していなかった。首長に聞くと「それは最初から住民も分かっている。けれど、最初から縮小プランを出したら元気が出ない」と。なるほどと思いました。

こと東北の復興において、縮小モデルは一つの理想であり、一方で成長モデルもまた夢でした。現実の要求とどこか合致しない。建築家や大学の研究者が行ったまちづくり支援も同様で、理想モデルを掲げた活動の多くが地元行政とうまくいかず消滅していきました。

そうした矛盾を抱えたまま、結局は大手ゼネコンに頼る旧来型の復興が進行。その結果、造り過ぎもあるんです。復興住宅などは、地域によっては明らかに造り過ぎた。

ただ、それには原因があって、当時の政権が全額国庫負担にしてしまった。わずかでも地元負担を入れないと、自治体は懐が痛まないのでどんどん造ってしまう。結果、入居者が決まらず借家政策を始めないといけないといった笑えない状況も生まれてしまった。

役所の担当者にも話を聞きましたが、状況は両極端でした。復興工事やまちづくりの担当課は、仕事があるから元気がいい。しかし、雇用や産業誘致の担当課はすこぶる暗い。いろいろ頑張っても企業は移転して来ず、雇用も増えないのです。

震災から数年後、防潮堤や復興道路ができてくると同時に、多くの矛盾も顕在化していきました。

2019年復興が続く岩手県大槌町