2010/01/25
誌面情報 vol1-vol22
甲南病院元院長の報告
阪神淡路大震災で、病院はどのような状況に陥ったのか。神戸市東灘区の市街地から約1㎞山手の住宅地に位置する病床数400を有する財団法人甲南病院元院長の老籾宗忠氏は、当時の状況を冊子にまとめた。
冊子には、震災当初から3日間で約1260人の外来患者があり、震災前からの入院患者に加え、新たに3日間で329人の入院患者が出て、各病棟の談話室、廊下などのスペースに簡易ベッドを作り患者を収容したことなど発災直後からの様子が、詳しく描かれている。
この中で老籾氏は、医療活動のあり方について、震災初日で総職員276人中、239人が参集するなど、比較的早い時間帯に職員が集まり、特に初動について医 療機材などを確保するなどの効果は大きかったとしながらも、「一時に多くの患者が殺到し、カルテを書く余裕が無かったことを考えると、初動にはさらに多く の医師の確保が必要で、医師は病院の近くに住むことができれば災害時に大きな力になる」と報告している。また医師や、看護婦のみならず、事務職員の手助け も、病院玄関から診療の場へ運んだり、エレベーターが使えない中、重症患者を上層階に階段で搬入するなど相当数必要だったと、当時の状況を記している。
老籾氏は「もし次に同様の災害が生じたら、患者および医師側双方それぞれが、災害医療遂行に対する自己の見識を持っているため、今回よりも混乱が生じること も考えられる」と指摘。その上で、打開策として医師が協力体制を取り、患者対策として事務職が看護婦不足を補うべき患者整理に活躍すべきだと強調してい る。
ライフラインの影響については、電気は当日夕方に回復したが、ガスが使えない中で、看護婦寮の個人用炊飯器を15個ほど集め、夜を徹し て入院患者や職員のおにぎり(約1000個)を作って対応したなど当時の厳しい状況が報告されている。水に関しても災害対策本部へ要請してもタンクロー リーの給水はなく、ボランティアのタンクローリーで20∼50tの給水をもらったなど、多くの苦労があったようだ。
老籾氏は冊子の中で、震災発生の翌月からは外来者が減り、経営上の問題が生じ医師数を減少させて対応したなど民間の医療機関としての問題も特筆している(次号以降でインタビュー記事掲載)。
2010年1月号vol.17より
[以下 2010年3月号vol.18より]-------------------------------------------------------------------------------------------------
被災地で手術はできない 阪神淡路大震災甲南病院の対応
医療機関のBCPは本当に有効か?
被災地で手術はできない
本誌1月号(Vol.17)では、「医療機関におけるBCP(事業継続計画)」について特集し、被災時における入院患者の安全確保をはじめ、日常の重要業務 を継続させるためのハード・ソフト両面からの対策を紹介した。他方で、実際に被災した医療機関がどのような状況に陥り、何に困り、どう対応したかを知るこ とも、BCPの実効性を高める上で極めて重要だ。阪神淡路大震災で被災しながらも、震災当初3日間で1260人もの外来患者、329人もの入院患者を受け 入れ、医療を守り続けた財団法人甲南病院を訪ねた。
古めかしい建物は、阪神淡路大震災の当時から変わっていない。昭和9年に建築されたものだが、重厚な造りで神戸市を直撃した強い揺れでも躯体への被害は無かった。
甲南病院の当時の院長で被災後の対応の指揮にあたった老籾宗忠氏(現特別顧問)は「震災直後に家を出て、車で病院へ向かったのですが、とにかく病院が建っているかが心配でした。建物も患者も無事だと知ったときは、本当にほっとしたことを覚えています」と当時を振り返る。
甲南病院は、東灘区の市街地から約1㎞山手の住宅地に位置する病床数400を有する東灘区で最も大きな地域の中核病院。被災時は1月の連休明けということも あり、入院患者は普段より少なめの320人程度だった。しかし、震災発生後は初日だけで約250人の入院患者があり、廊下や待合室に毛布を敷き、点滴を窓 枠にぶらさげて対応するなど状況は一変した。震災当初3日間での外来患者数は1260人にのぼり、うち329人が入院した。400床というキャパシティに 対し600人を超える入院患者を受け入れたことになる。初日の死亡者数は83人で、そのうち約9割は病院に運ばれてきた時には既に亡くなっていた DOA(Deathon Arrival)であった。また、ほとんど手がつけられない状態で入院後に亡くなった人も11人いた。「死亡者が次々と出てくるため遺体を動かさないと診 察の場所が確保できない状態でしたから遺体安置所を作らねばならず大変でした」
こうした状況の中でも震災当日に出産も2例あったという。
ち なみに、火災被害を多く受けた長田区の近くに位置する神戸大学医学部付属病院は900床を超える大病院だが、押し寄せた外来患者数は震災当初3日間で 698人、うち147人が入院と、甲南病院の約半数にとどまる。この結果からも甲南病院がいかに大変な状況だったかがうかがえる。
「木造家屋が多かったことや、町中の小さな病院がいくつもつぶれてしまったことで患者が集中したのでしょう」地震による被害の大きさが把握できてきたのは初日の夜だったという。
「誰も、どれほどの患者が殺到するのか、医師をはじめ職員がどれほど集まるかも当初は予想できない状況でした」
老籾氏は「時々刻々と変わっていく状況に対応するだけで精一杯でした」と当時の状況を表現する。
■外来患者への対応
外来患者には透析室を開放し、その部署を重傷者の診察場にすることで対応した。重傷者以外は、通常の内科、外科の外来を開放し、整形外科の診察場と、一般の外来患者用の部屋を設けた(図)。
当時はまだ多数の傷病者を重傷度と緊急性によって分別して治療の優先度を決定するトリアージは国内で知られていなかったが、重症患者の処置室を分けることで結果的に簡易のトリアージができていたことになる。
ただ老籾氏は、「助かりそうもない患者を後回しにする今のトリアージの考え方には全面的に賛成はできません。もちろんトリアージは必要なのでしょうが、優先 付けされる患者さんは気の毒です。トリアージをしないで済む方法というのをもっと考えた方がいいのではないでしょうか」と疑問を投じる。
具体的な方法として、処置可能な重症患者はできるだけ早く被災地外に搬送することを提案する。震災医療では、重傷者はなるべく安静にさせ現場で手術を受けさ せるという考えもあるが、「仮に手術をするとなれば、数少ない医師やスタッフのうち、たくさんの外科医が使われることになりますし、次々に同じような患者 が運びこまれてくるわけですから、結局対応できなくなるでしょう。それよりは、被災地外の病院や行政機関の関係者らが、被災直後に一刻も早く現地に入り、 自衛隊のヘリコプターなどを使って、とにかく早く重傷者を搬送することが大切だと思います」と老籾氏は話す。
「他での治療は受けたくないとか、搬送中のリスクをどうするかなど、さまざまな議論があるかもしれませんが、私は被災地の病院の負担を軽くする、結果として患者の負担を軽くするためにも搬送が大切だと考えています」
実際、甲南病院でも重症患者は応急手当だけで手術はせず搬送した。救急車がまったくつかまらない状況の中、幸いにも同病院では自衛隊のヘリコプターを2日間ほど使うことができ、ヘリコプターだけで41名という多くの重症患者を転院させることができたという。
「大勢を乗せられる自衛隊の大型ヘリコプターを使えるようにすることが大切だと思います」震災前から入院していた患者への対応にも搬送体制は必須だ。同院でも 再生不良性貧血で輸血予定であった患者が、右鎖骨骨折、右血胸(けっきょう)で緊急輸血の必要な状況が生じたが、最後のヘリに乗せることができ、助かった という。
■燃料は最低1日分
特に困った点として老籾氏は、自家発電気用の燃料が切れかけたことを挙げる。「夕方に電気が再開したことはラッキーでした。やはり最低1日分の燃料は用意しておくべきでしょう。初日の夜、電気がない中で医療行為を行っていればパニックに陥っていたと思います」。
水道も断水した。完全復旧したのは震災から約20日後。貯水タンクには約180トンの水を持っていたが生活用水、診療用のごく限られたものだけに使用するこ とにして全館給水をストップして対応した。ただ、透析患者には大量の水が必要になることもあり、2日後には近くの水源地に出向き、給水を依頼。以後、ボラ ンティアのタンクローリー車で毎日30∼50トンの給水を受けることができた。
ガスについては、患者の給食用のガス炊飯器が使えなくなり、 看護婦寮から個人持ちの2∼3合炊きの電気炊飯器を15個ほど集め、これを使って、何回かに分けてご飯を炊いた。「初日の夜、翌日の食事について、困っ た、困ったと話し合っている中で、ふと、電気炊飯器というアイデアが持ち上がったのです」。数日間はボランティアの看護学生を中心に毎日、握り飯を 1000個以上も作る日々が続いた。
数日分の食料の備蓄が必要では?
老籾氏は、こんな質問に対し「現実問題としてはどんな災 害がくるのか分からないのに備蓄といってもお金がかかるし、困ると思います。普通の診療ができている中規模な病院なら特別な備蓄がなくても1日ぐらいは何 とか乗り切れるでしょう。その後は、必要に応じて国なり県が、届けるシステムを考えた方がいいのではないでしょうか。例えば、国内の数箇所でまとめて備蓄 し、大規模災害が起きれば自衛隊ヘリコプターで運ぶなど方法はあると思います」と話す。
備蓄に限らず、災害医療においては日本全体として広域でとらえ、対策ができるようにしておくことが必要だとする。
■資金難が追い討ち
もう1つ大きな課題になったのが病院の経営だ。震災当初1週間程度は、誰もお金を払わないし徴収もできない。さらに、手術を予定していた既存の入院患者を転 院させ、重症患者の多くも搬送したことから病院は一時的に空っぽに近い状態になりかけてしまったという。道路事情が悪いことに加え、住民の多くが疎開して しまったことも拍車をかけ、震災の1∼2週間後から外来患者は激減。老籾氏は「医師を減らして対応せざるをえなかった」と振り返る。
ただ、その後は、肺炎の患者が増えたり、ストレスからと思われる循環器系の疾患などの入院患者が増え、6月ぐらいには患者数は回復し、持ちこたえることができた。
■医師は2時間以内に参集を
震災での対応を振り返り老籾氏は、特に重要な点として「初動におけるスタッフの参集」を挙げる。特に医師については被災直後、一気に患者が押し寄せるため、 発災後2時間ぐらいの間に集まることが重要と見る。「スタッフは居すぎて困ることはありません。エレベーターが止まれば患者を4階、5階に搬入するのに何 人もの人手が必要です。トイレの水も汲みに行かなくてはいけません」
■細かなマニュアルは不要
阪神淡路大震災以降、災害対応マニュアルの必要性が叫ばれているが、老籾氏は「電源確保や水の調達などライフラインをどうするのかなど大まかなものは必要で しょうが、細かなものはいらないと思います」と持論を展開する。誰が何をすべきかを決めても、その人がいるかいないかも分からないし、夏場と冬場、あるい は時間帯でも被害が異なるため想定しきれないことが理由とする。
それよりは、指揮者のもと団結して動ける対応を整えておくことが大切と考えている。「指揮者のもとで統一行動ができていれば、多少ベストな方向でなくても軌道修正しながら1∼2日は何とか乗り切れるはずです」
その際、指揮者の心得として命令を出す前に、ほんの一分でも熟考してみることが必要と説く。「患者の搬送にヘリコプターを使ったときも、即答していたとした ら、搬送に付き添う医師を割かねばならず、また危険だし使うべきではないと判断していたかもしれません」。震災医療で懸念していることとして老籾氏は「阪 神淡路大震災後、皆さんいろいろな災害に対する知識を身に付けられていると思いますが、次に大きな災害が起きたときは、かえってそれが災いし、各々が意見 を出し合って収拾がつかなくなるのではないでしょうか」と話している。
もっとも重要なことは、いかなる時でもあきらめない心だという。「諦めなければ必ず現場からアイデアは出てきます。電気炊飯器でおにぎりを作ることを考えられたのも、ヘリコプターを使うことを考えられたのも、すべてあきらめない心があったからでしょう」
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