1. はじめに

「親の介護経験は人を変える」 この連載を始めた当初、私はこの言葉の意味を十分に理解していませんでした。しかし今、連載の最終回を執筆するにあたり、この言葉の重みを身をもって実感しています。 これまで5回にわたり、認知症の母親を介護する中で直面した様々な課題と、それを乗り越えるための実践的対策について書いてきました。

そして今回の最終回では、この介護経験を通じて学んだ人生の教訓と、介護後の人生をどう再構築したかについてお伝えします。 親の介護は確かに危機であり、試練です。しかし同時に、人生を見つめ直す貴重な機会でもあります。この連載の最終回では、介護という人生の転機を経験し、その後の自分の人生をどう再構築したのか、その過程で得た気づきについて綴っていきたいと思います。

2. 介護危機の総括

母の介護は、2022年1月に認知症の初期症状に気づいたところから始まりました。それから約2年間、遠距離介護を続け、様々な壁にぶつかりながら、最終的には特別養護老人ホームでの生活へと移行しました。 この間に直面した主な危機は、以下のようなものでした。

危機の種類 主な内容
精神的危機 ・母の認知症進行による人格変化への戸惑い
・常に漂う罪悪感(十分なケアができていないという自責の念)
・将来への不安と無力感
実務的危機 ・介護制度の複雑さへの対応
・医療・介護関係者とのコミュニケーション困難
・遠距離介護特有の物理的制約
仕事と責任のバランス ・仕事と介護の両立による心身の疲労
・予測できない介護ニーズに対応するための業務調整
・家族の介護と職業人としての責任の両立
経済的危機 ・介護費用の捻出 ・将来の資金計画の再検討
・介護による経済的制約
家族関係の危機 ・家族内での役割分担と責任の偏り
・介護方針をめぐる意見の相違
・子育てと介護の「ダブルケア」状態

 

これらの危機は、私の人生のあらゆる面に影響を及ぼしました。しかし振り返れば、一つひとつの危機には、その先に学びがあったことに気づきます。

3. 乗り越え方の実践知

これらの危機をどのように乗り越えてきたのか。今、冷静に振り返ると、以下のような「乗り越え方」があったように思います。

【心の持ち方】
・「完璧を目指さない」という覚悟
・「今できる最善」に集中する姿勢
・小さな進歩や改善を喜ぶ習慣

第2回で触れた「パーフェクトではなく、グッドイナフを目指す」という考え方は、介護全体を通じての私の支えとなりました。最初は「もっとできるはず」「もっとやらねば」と自分を追い込んでいましたが、ある時ケアマネジャーから「八重澤さん、あなたは十分やっていますよ」という言葉をかけられ、肩の荷が下りる思いがしました。

【実務面での工夫】
・テクノロジーを活用した遠隔見守り
・信頼できる専門家との関係構築
・緊急時対応の準備

遠距離介護の難しさを少しでも軽減するために、テクノロジーの活用が大きな助けとなりました。私の場合、スマートスピーカーや動作センサー、見守りカメラを設置したことで、長野の母の状況を東京から確認できるようになりました。「耳」(電話での会話)だけでなく「目」も得たことで、状況を客観的に把握できるようになり、適切な対応が取りやすくなったのです。 しかし、新たな課題も明らかになりました。遠隔で状況を把握できても、母がコンロで鍋を焦がしていたり、転倒したりした場合、実際に現地で対応する「手」がないのです。この問題に対処するため、母の近所に住む方々や地域の支援者との関係構築が不可欠でした。定期的に連絡を取り合い、緊急時には代わりに対応してもらえる「手」となってくれる人たちのネットワークを作ることが、遠距離介護の重要な鍵となりました。

セキュリティと利便性の両立も工夫しました。母の家の玄関にはキーボックスを設置し、必要な人だけが暗証番号で解錠できるようにしました。これにより、デイケアの送迎スタッフやホームヘルパーさんが私の不在時でも安全に出入りでき、COVID-19感染時の緊急対応でも、ケアマネジャーやヘルパーさんがセキュリティを維持しながら看病できる環境が整いました。こうした小さな工夫が、遠距離介護の大きな助けになったのです。

【人間関係の構築】
・率直に助けを求める勇気
・感謝の気持ちを言葉にする習慣
・相手の立場に立って考える姿勢

介護では、プライドを捨てて「助けてください」と言えることが重要でした。特に長野の母の近所の方々や、施設のスタッフに対しては、常に感謝の気持ちを伝えるようにしていました。その結果、多くの方々が温かい手を差し伸べてくれ、「一人ではない」という安心感を得られました。

【仕事面での対応】
・上司・同僚への早めの情報共有
・業務のマニュアル化と効率化
・在宅勤務や時短勤務などの制度活用
・同じ経験をしている先輩からの支えと知恵

第4回でも触れましたが、介護状況を職場に隠さず伝え、理解を求めたことは正解でした。また、それまで属人化していた業務をマニュアル化し、急な不在時も対応できる体制を整えました。結果として、チーム全体の業務効率化にもつながりました。

特に大きな支えとなったのは、私と同時期に、そしてより進んだ段階で親の介護を経験している職場の先輩の存在でした。先輩は現在進行形で介護に向き合いながらも、私がまだ経験していない状況や対応策について貴重な知見を共有してくださいました。これにより、先を見通す力が養われ、起こりうる事態に対して心の準備ができたのです。

「自分だけが大変な思いをしている」という孤独感から解放され、「一歩先を行く先輩」という道しるべを得たことは、私の心を守る大きな財産となりました。このような経験者同士のつながりは、制度や仕組み以上に心強い支えになり、未知の状況への不安を和らげてくれることを実感しました。

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