親英米派・牧野伸顕(筑波大学附属図書館資料)

最期の地は柏

私は千葉県柏市に移り住んだ際、是非とも訪ねてみたいと願った同市やその周辺(東葛飾地方)の歴史的由緒のある地が少なからずあった。その中の一つが、戦前国際協調派の政治家・外交官として知られる牧野伸顕(まきの のぶあき)が晩年を過ごし永眠した柏市十余二(とよふた)の寿町(ことぶきちょう)である。私は近現代史に関心を持つものとして、牧野の生涯に関する書籍や文献を通読してきた。隠棲地・十余二で身内のみに見守られて静かに息を引き取った牧野は傑出した政治家といえる。その80年余りの激動の人生をスケッチしてみよう。

牧野は文久元年(1861)に生まれ、昭和24年(1949)に他界した。鹿児島出身(薩摩閥の雄)の外交官・政治家(伯爵)である。「明治維新の三傑」と称され維新の功労者である大久保利通の次男で、後に遠縁の牧野家の養子となる。明治4年(1871)岩倉使節団の実父大久保に従ってアメリカに渡り大学に留学する。帰国後、明治13年(1880)、外務省に入りロンドン公使館に在勤し、長州閥の雄伊藤博文の知遇を得る。その後法制局参事官、首相秘書官、内閣記録局長等を経て、福井・茨城各知事や文部次官を歴任した。

明治30年(1897)イタリア、32年(1899)オーストリアのそれぞれ公使を歴任した後、第一次西園寺公望内閣の文相となった。彼は元老(公爵)西園寺に重用され側近となった。42年(1909)枢密顧問官、第二次西園寺内閣の農商務相、第一次山本権兵衛内閣外相、臨時外交調査委員を歴任。この間14年貴族院議員に勅選された。大正8年(1919)パリ講和会議次席全権(首席全権西園寺公望)として赴いた。日本側の実質的中心人物として役割を果たした。
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大正10年(1921)宮内大臣、14年(1925)内大臣(天皇補佐役)として元老西園寺を背景に宮廷の実権を握り、準元老的存在として官僚・政党・財閥・軍部間の利害を調整する役割を演じた。牧野は大正天皇の病気が悪化したころから昭和天皇の即位まで宮中の事務を統括して乗り切り、天皇から厚く信頼された。
軍部の台頭とともに、軍部や右翼勢力から親英米派、現状維持派との非難や追及を受け、「君側の奸(かん)」とも目された。昭和7年(1932)5月15日早朝、軍人グループが首相官邸に乱入し首相犬養毅を暗殺した(5.15事件)。この時内大臣に就任していた牧野も襲われ、邸宅にピストルの弾丸が撃ち込まれた。11年(1926)2月26日には陸軍の青年将校を中心に2.26事件が起こり、首相岡田啓介、内大臣斎藤実、大蔵大臣高橋是清、侍従長鈴木貫太郎、教育総監渡辺錠太郎らが襲撃された。牧野は伊豆・湯河原の旅館「光風荘」に宿泊しているところを襲撃されるが、孫の麻生和子(後の総理大臣吉田茂の娘)の機転によって危うく難を逃れた。

軍部は暴走を続ける。昭和初期に外相を歴任した幣原(しではら)喜重郎は後に「外交五十年」で言う。「太平洋戦争は、盧溝橋事件から惹起(じゃっき)された日華事変の発展したものであり、その日華事変は柳条湖から発火した満州事変の発展したものである。即ちこの三者は、一連の糸のように、互いに相関連したものである」
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昭和6年(1931)の満州事変勃発以降は中国進攻を目指す軍部にとって、牧野をはじめ自由主義的な政治家は「邪魔な存在」でしかなかった。自由主義は圧殺される。前年に内大臣を辞任していたが、欧米の事情に通じ穏健な協調派であった牧野が、軍部・右翼から「君側の奸(かん)」と目されたことは既に記した。内大臣を辞した後も昭和天皇の牧野に対する信頼は厚く、たびたび宮中に呼ばれて意見を求められた。牧野は以後、帝室経済顧問、東亜同文会会長等を務めた。穏健な英米協調派として昭和10年(1935)伯爵となる。

5.15事件と2.26事件という昭和初期の軍事クーデターで2回とも命を狙われた政治家は牧野伸顕しかいない。政党が軍部に抑えつけられ立憲政治が瀕死の状況に陥るなかで、彼は英米流の自由主義を精神の柱に据え軍国主義に手を貸さず、むしろ批判し密かに同志を募り和平を求め続けた。牧野の「回顧録」(全3巻)はパリ講和会議まで、「日記」は昭和13年(1938)までで終わっている。外交官としての活躍はここまでと考えたのだろう。日本は太平洋戦争という奈落の底に転落する。