牧野別邸跡(柏市十余二)

政界から離れて柏に隠棲

牧野が戦時中に柏の田園地帯に隠棲するきっかけをつくり、晩年を看とった元日本医師会会長武見太郎(牧野の孫娘英子の夫)は、昭和12年(1941)田中村(現柏市)十余二に疎開する。その理由について著作「戦前 戦中 戦後」の中で言う。

「・・・やがて原子爆弾が東京に落ちることを予想せざるを得なかった。東京から自動車で1時間以内で行け、田舎で水の便の良い疎開先を探し、我孫子から関宿の辺りに目をつけた。自分の患者であった作家幸田露伴先生に聞くと『利根川図誌』(注:赤松宗旦著、江戸期の利根川地誌)を下され、この辺りは関東一の絶景で<平将門伝説>もある。『俺は死ぬ時はこの辺りで死にたい』とまで言われた。私はそこの田中村(現柏市)十余二という所へ土地を求めた。これが昭和12年のことである。牧野伸顕伯も自宅が焼夷弾でやられると私の家のすぐとなりに移ってきた。吉田茂さんも陸軍刑務所から出るとすぐ牧野伯のところにあいさつにみえた。政界の巨頭が往来するようになり、役場でも気を使って砂利を入れたりしてくれた。・・・」

牧野の動静も伝えている。

「(十余二の)山の中に住んでいても、しょっちゅういろんな人が来ていた。石黒忠篤農林大臣、東郷茂徳外務大臣もよく見えたし、鈴木貫太郎総理大臣などは関宿(郷里、現野田市)へ帰る途中しょっちゅう立ち寄られていた。その話の内容は、いかにして早期に戦争をやめるかということである。牧野伯が宮中に参上されると陛下は必ず、その問題について御下問になったそうである。・・・(8月6日、広島に原子爆弾投下)たしか7日の夜11時頃であったが、牧野伯を起こして原爆が投下されたことを伝え、私が持っていたデータを見せると『これで軍も抑えることができるであろう』と言っていた。翌8日宮中に参内、陛下にそのことを言上し、牧野伯が退出した後、終戦の御聖断が下される歴史的な御前会議が開かれた。原子爆弾であるという証拠が陛下の手に渡っていたということは、御前会議の運営に非常に意義があったようだ。・・・」
十余二時代の晩年の日記類は確認されていない。
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柏市内を東西に走る国道16号線と並行している柏第四小学校前のバス通り(東武バス若柴循環ルートの県道)に「寿町(ことぶきちょう)」というバス停留所がある。JR柏駅西口から西に歩いて20分余りの住宅地の中である。このバス停留所の奥に大人で両腕一抱えもする桜の大樹の列に囲まれた一角がある。ここが牧野伸顕の隠棲地の跡である。

地元古老の話では「8月15日正午に放送された玉音放送(昭和天皇による終戦の詔書)レコード盤を軍部に奪われることを恐れた牧野が、ひそかに写しを作成し十余二に保管した」という。東京の軍部の目を離れて和平工作をするには、十余二(当時農村)は都合が良かったと言えよう。

牧野は激動の明治・大正・昭和期に親英米派・反軍派の重鎮として活躍したが、彼の政治理念は残念ながら実現しなかった。むしろ圧殺された。隠棲地柏で昭和24年(1949)1月25日死去した。享年87歳。彼は豊富な欧米体験から自由主義を自らの政治理念と信じた。軍部・右翼のテロの標的となりながらも日米開戦については最後まで回避を主張し工作もした。戦争突入後は早期終結の道を模索した。軍部には屈しなかった。

参考文献:「牧野伸顕日記」(牧野伸顕)、「牧野伸顕回顧録 全3巻」(同前)、「戦前 戦中 戦後」(武見太郎)、「外交五十年」(幣原喜重郎)、柏市立図書館文献。

(つづく)