若い新聞人越川(左)と政治家尾崎行雄(千葉県立図書館資料)

気骨あふれる若き新聞人

千葉の銚子が生んだ「知られざる」新聞記者の思想と生涯を紹介したい。越川芳麿(1906~82)の人と思想に関心を持つようになったのは、筑波大学の「歴史地理学調査報告、第10号」に掲載された水谷悟氏の論文「『極東新聞』と越川芳麿―一地方新聞から見る昭和期の銚子」を読んでからである。水谷氏の新資料発掘と調査批評さらには『房総歌人伝』(田辺弥太郎)の「越川芳麿」などを参考にしながら、気骨の言論人・越川芳麿の人生を確認したい。

芳麿は明治39年(1906)6月9日、日本有数の漁港をかかえる千葉県銚子町本城183番地(現銚子市本城町2丁目183)に下駄屋の次男として生まれた。裕福な家庭ではなかったようである。最終学歴は「昭和4年(1929)23歳・銚子公正学院卒業」である。同校は地元有力企業であるヤマサ醤油・第10代当主浜口梧洞が郷土銚子への報恩として私財を投じて設立した公正会館の教育機関である。私塾に近い「学校」で、主に勤労青少年を対象にした。

芳麿は青年時代から文学・詩歌・絵画を好んだ。山村暮鳥や石川啄木の作品を愛読する文学青年だった。昭和3年(1928)、彼は「銚子評論」に短編小説を応募したことを契機として同誌の記者となる。「生まれて初めて背広を着用、<記者>といっても記事を書いたり、広告や購読料を集める仕事をやった」と後年追慕しているが、この経験は後に独自の新聞を発行する際に生かされた。その一方で芳麿は詩歌や絵画の創作にも熱心な芸術愛好家であった。銚子短歌会に所属したが、氏の知性や教養は独学で得たものが大半である。
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昭和5年(1930)1月、芳麿は「極東新聞」と題する地方新聞を創刊した。弱冠24歳。「極東」とは、日本の最東端に位置する銚子を象徴すると同時に、世界における日本の位置を示す言葉でもあった。(同紙は創刊号をはじめ初期4年間分が残存していない)。軍国主義台頭の時期で言論の自由は抑圧された。同紙が第三郵便物として許可されたのは同年11月であった。「極東新聞」の届け出書類「東監認甲第314の3号」の「二、記載事項ノ性質」に注目したい。「政治、経済、衛生、商事、時事」との記載には厳しい言論統制のもと、政治批判が薄れていく新聞事業の展開の中で、「政治」「時事」を論じていくという同紙の確固たる意志が表明されている。「衛生」なども漁業や醤油醸造を主な生業としている土地柄への対応の現われとして興味深い。

同紙の象徴として掲げられた「カマとハンマー」は不当な政治権力へと否応なく振り下ろされ、町の行政や議員はもとより「ヤマサやヒゲタなど、銚子の財閥は皆筆誅の対象になった」(水谷氏)という。そのこともあり同紙は一躍有名になったが、大きな反響のために芳麿は「警察をはじめ市民から<左翼思想><赤>のレッテルが張られた」。

購読料は創刊当初、1部10銭であった。当時、昭和恐慌に伴う米価の暴落もあり米1升が約16銭、「東京朝日新聞(東朝)」が1部6銭、月額1円20銭であったから、1部当たりの価格は決して安いとはいえない。ただ同紙は月刊を原則としていたので、月当たりの値段は安価であった。「反戦平和」を訴えて筆禍事件を起こし、下獄したこともあった。