津波に破壊された田老地区の防潮堤(提供:高崎氏)

二重防潮堤は住民を救えなかった~田老地区~

2011年の東日本大震災と大津波は、青森県から千葉県までの太平洋沿岸を中心に甚大な被害をもたらした。死者・行方不明者は2万人近くに上る。日本国内で起きた自然災害で死者・行方不明者が1万人を超えたのは戦後初めてのことであった。

被災現場を取材した際のノートや写真などから、忘れがたい事象を記しておきたい。今日から見れば、いずれもメデイアによって報じられよく知られた情報である。だが悪夢のような被災現場を歩き回った者として、惨状だけでなくその教訓をも書き残しておきたいのである。

岩手県宮古市田老(たろう)地区は津波の常襲地区である。その珍しい地名については、津波が何度も襲い水田が荒れ果てて「田が老いた」という由来や、繰り返し津波を受けたため恐ろしさを知る老人だけが生き残り「多老」と呼ばれ、それが「田老」になったという由来が語られている。(「天災と日本人」畑中章宏)。

慶長16(1611)年の慶長三陸地震津波、明治29(1896)年の明治三陸津波、昭和8(1933)年の昭和三陸津波と、記録に残る大津波のたびに、田老地区は壊滅的な被害を受けた。明治三陸津波の後には、危険な地帯の全集落を高台に移すことが計画された。だが移転の効果を疑問視する声も多く、海辺に近い平地に再び集落が造成された。昭和三陸津波後にも、内務省と岩手県による復興案は集落の高台移転だったが、当時の田老村長らは防潮堤の建造を柱に据えた復興策を選んだ。

1934年に建設工事が開始され、太平洋戦争を挟んで1966年に最終的な完成をみた大防潮堤は、総延長2433m・高さ10mのX字型の二重防潮堤で市街を城壁のように取り囲む壮大なものだった。X字型の二重防潮堤は世界的にも珍しく「万里の長城」の異名をとった。1960年に襲来したチリ地震津波では、三陸沿岸の他の地域では犠牲者が出たが、田老地区に押し寄せた津波は3.5mの高さにとどまり巨大防潮堤に達することはなかった。

その後、田老地区で被害がほとんどなかったのは、防潮堤の効果だったと報道されたことにより、巨大防潮堤は海外の津波研究者らにも注目されるようになる。昭和三陸津波から70周年に当たる2003年3月3日、田老は「津波防災の町」を宣言した。

「…私たちは津波災害で得た多くの教訓を常に心に持ち続け、津波災害の歴史を忘れず、近代的な設備におごることなく、文明と共に移り変わる災害への対処と地域防災力の向上に努め、積み重ねた英知を次の世代に手渡していきます。…」。

悲劇はその後に起きた。東日本大震災に伴う大津波は、午後3時25分に田老地区を襲った。「万里の長城」と称された海側の防潮堤は約500mにわたって一瞬で倒壊し、市街中心部に侵入した津波のため市街地は壊滅状態になった。死者・行方不明者は、同地区の人口4434人のうち200人近くに及んだ。「万里の長城」を信頼しすぎたためとの指摘も出された。「長城」は敵の侵入から住民を救ってくれなかった。田老地区では震災後、防潮堤の修復と共に高所移転を中心とした復興事業が進んでいる。津波で3階まで壊滅的被害を受け廃墟と化した「たろう観光ホテル」(6階建て)が、震災遺構として保存されることになった。