常総市にある水没を免れた泉蔵院十一面観音堂(提供:高崎氏)

鬼怒川決壊と十一面観音堂

日本古来の大洪水と民間伝承(信仰)を考える。一昨年(2015)9月10日12時50分、茨城県常総市三坂町の鬼怒川左岸(東側)堤防が決壊した。堤防を切った濁流は、低地を求めながら常総市を中心に1万戸以上が床上・床下浸水させ、田畑は泥の海に没した。多数の住民が孤立し救いを求めた。

これより先、決壊現場から約4km上流の鬼怒川左岸の同市若宮戸地区では激流が溢水し田畑に流れ込んだ(溢水は無堤地での越流)。川べりに立つ泉蔵院十一面観音堂では前日9日夜は月例の「観音講」だった。十一面観音は水神様でもある。日付が変わった10日午前2時20分、若宮戸地区に避難指示が出され、夜明けに激しい氾濫が始まった。泉蔵院は濁流に孤立し、十一面観音堂の前石段最上段まで濁流が押し寄せた。同地区には堤防がない。大型の太陽光発電施設(ソーラーパネル)の設置の際に自然堤防が削り取られたためである。自然堤防はその昔から洪水防御に役立ってきた。堤防がなく危険なことは常総市議会でも指摘されていた。

観音堂付近の十一面山(若宮戸山)も堤防の役割を果たしていた。だが、この小高い丘もソーラーパネル設置により、延長約150m、高さ2mも掘削されていた。(堤防決壊により、常総市では鬼怒川と小貝川に挟まれた市域の3分の1が水没し、死者2人、負傷者40人以上、全半壊家屋5000棟以上という甚大な被害を出した)。

鬼怒川に沿って南北に広がる十一面山の中間付近に、十一面山の名の由来となった金椿山泉蔵院十一面観音堂がある。観音堂は伝行基作の十一面観世音菩薩を祀(まつ)る。泉蔵院は近隣の下妻市にある普門寺の門徒寺で、歴史は延文2年(1357)にさかのぼり、往時は境内に十一面観音堂のほか、牛頭(ごず)天王宮、不動王堂、日天宮、薬師堂などが軒を連ねていたようである。現在は無住で、平成6年(1994)に新築された観音堂と鐘楼が建つ静かなたたずまいである。地元の信仰心は厚く、毎月9日には観音講が開かれている。

明治初期の迅速測図(じんそくそくず)によると、河畔砂丘林である十一面山は最高地点が32.25mに達し、標高17~18mの東側一帯の自然堤防よりも14~15m高かった。延長2km、最大幅約400m、総面積約20ha余りに及び、大きな3筋の河畔砂丘が連なる大規模なものだった。

鬼怒川の水流が運んできた大量の砂を冬の北西季節風「日光おろし」が吹き寄せ、東岸に砂丘を形成したもので、良質な砂は戦後の高度成長期に昭和39年(1964)の東京五輪関連の大規模工事のため東京方面に運ばれた。その後、石油やガスの普及で、薪炭林としても活用されなくなった里山は、松くい虫の被害でアカマツが減少し、周辺の桑畑や野菜畑も放置されて、廃車などが不法投棄されるようになった。無残なゴミの山となった。

平成15年(2003)には市民が十一面山の自然を守り、保全整備を促進する会を結成し、トラック150台分もの不法投棄物を撤去して、苗木の植樹なども実施してきた。高度経済成長期の川砂の採取、その後の不法投棄、そして近年のソーラーパネルの設置に伴う丘陵の掘削・・・。川の神・十一面観音を祀る十一面山は、戦後から現在に至る不孝な里山の縮図である。