自然堤防も兼ねていた常総市の十一面山(提供:高崎氏)

十一面観音、円空仏

日本列島古来の自然崇拝にもとづく水の神は、道教や仏教の龍神や龍王と習合し、さらには十一面観音にその役割が託されていった。以下、「天災と日本人」(著・畑中章宏)を参考にする。

古代や中世に造成された数々の十一面観音像は、治水や利水の象徴だったと考えられる。奈良盆地の山間地、桜井市初瀬(はせ)に十一面観音の聖地「長谷寺」がある。春に咲く牡丹をはじめ、四季折々の「花の寺」として知られるこの寺は、朱鳥元年(686)、道明(どうみょう)上人が天武天皇のために「銅板法華説相図」(千仏多宝仏塔)を、初瀬の西の丘に安置したことに始まる。さらに神亀4年(727)には徳道上人が、聖武天皇の勅により、東の丘に十一面観音を祀った。その経緯を見てみる。

近江国(現滋賀県)高島郡の白蓮華谷に長さ10余丈(30m以上)におよぶ楠の倒木があった。倒木が、ある時大洪水で大津に流れ着き、そこの里人に祟りをなした。人々はこの木で仏像を造ろうとして、大和国(現奈良県)の八木や当麻(たいま)に運んだが、そこでも祟りがあった。その後、100年余りの間、初瀬川あたりに打ち棄てられていたが、徳道上人がもらいうけ、2人の仏師が高さ2丈6尺(約8m)の十一面観音を彫り上げた。そして、にわかに起こった暴風雨により、地中から出現した「金剛宝磐石(こんごうほうばんじゃく)」の上に安置した。祟りを及ぼす大木を霊木とみなし、そこから十一面観音を表すことによって、災厄を防ごうとしたのだ。その災厄が大洪水に他ならない。

現在、本尊として祀られている「十一面観音像」は室町時代、天文7年(1538)作の再興像で、高さ10m18cm、右手に錫杖(しゃくじょう)と念珠、左手に蓮華を挿した水瓶(すいびょう)を持つ。こうした持物の像は「長谷寺式十一面観音」と呼ばれ、列島各地の水辺に祀られ、「長谷寺」の名を冠した寺院も多い。

古代に列島の山間で始まった水害と十一面観音の結びつきは、近世の河川流域にまで及んだ。「鉈彫(なたぼ)り」と呼ばれる粗削りな技法で数多くの宗教彫刻(仏像など)を残した円空は、寛永9年(1632)に美濃国(現岐阜県)に生まれ、その足取りは、南は現在の三重県、奈良県、北は北海道、青森までたどることができる。円空は生涯に12万体の仏像を彫る誓いを立てたとされ、立ち寄った社寺や集落に仏神の像を彫り込み、残していった。

岐阜県羽島市上中町の「中(なか)観音堂」の「十一面観音立像」は像高222cmと、等身大以上の大きな像である。この観音堂は木曽川と長良川に挟まれたところにあり、古くから水害に悩まされ続けてきた。円空研究者によると、寛永15年(1638)、このあたりを洪水が襲い、円空の母親も犠牲となった。40歳となった円空は寛文11年(1671)、母親の33回忌の供養のために観音堂を建設し、十一面観音を造立したのだという。観音像の背面には直径約8cmの鏡が納められており、これは円空の母の形見の鏡ではないかと研究者は指摘する。また木曽川を流れ着いた木材から彫られたとの伝承もあり、それを証明するように像の背後には、「木そ(木曽)」の字を図案化した印が、いくつも付いている。さらには衣の襞が、龍や魚のうろこを思わせる。

河川や湖沼の氾濫の象徴である龍や蛇は、十一面観音に化身して治水を果たした。そして造立された観音像は日本全国に及んだ。海辺では、津波を鎮めるため十一面観音が祀られることもあった。