朝日新聞社説は正鵠を射ている

同日朝日新聞の社説「自由な報道 民主主義の存立基盤だ」は問題の本質を鋭く突いている。

「社会に中に<敵>をつくり、自分の支持層の歓心をかう。そんな分断の政治が招く破局は、世界史にしばしば現れる。
近年、各地で政治による敵視が目立つのはメディアである。とりわけ民主主義の旗手を自任してきた米国の大統領が<国民の敵>と公言した。
明確にしておく。言論の自由は民主主義の基盤である。政権に都合の悪いことも含めて情報を集め、報じるメディアは民主主義を支える必須の存在だ。
米国の多くの新聞や雑誌が、一斉に社説を掲げた。<ジャーナリストは敵ではない>(ボストン・グローブ社)とし、政治的な立場や規模を問わず、結束を示した。その決意に敬意を表したい。
報道への敵視や弾圧は広っている。中国のような共産党一党体制の国だけではなく、フィリピンやトルコなど民主義国家でも強権政治によるメディアの閉鎖が相次いでいる。
その上、米国で自由が揺るげば、<世界の独裁者をより大胆にさせる>と、ニューヨークの組織「ジャーナリスト保護委員会」は懸念している。
米国の多くの社説が拠り所としているのは、米国憲法の修正第1条だ。建国後間もない18世紀に報道の自由をうたった条項は、今でも米社会で広く引用され、尊重されている。その原則は、日本でも保障されている。「言論、出版、その他一切の表現の自由」が、憲法21条に定められている。
ところが他の国々同様に、日本にも厳しい目が注がれている。国連の専門家は、特定秘密保護法の成立などを理由に<報道の独立性が重大な危機に直面している>と警鐘を鳴らした。  
自民党による一部テレビ局に対する聴取が起きたのは記憶に新しい。記念相次いで発覚した財務省や防衛省による公文書の改ざんや隠蔽は、都合の悪い事実を国民に目から遠ざけようとする公権力の体質の表れだ。
光の当たらぬ事実や隠された歴史を掘り起こすとともに、人々の声をすくい上げ、問題点を探る。そのジャーナリズムの営みなくして、国民の「知る権利」は完結しない。
報道や評論自体ももちろん、批判や検証の対象である。報道への信頼を保つ責任はつねに、朝日新聞を含む世界のメディアが自覚せねばならない。
<国民に本当の敵は、無知であり、権力の乱用であり、腐敗とウソである>(ミシガン州デッドライン・デトロイト)。どんな政権に対しても、メディアは沈黙してはなるまい」

日本での戦前の教訓

戦前の日本での政府・軍部による言論弾圧と軍部暴走を考える。満州事変以降、言論統制に大きな力を発揮したのが軍部と、それと一体となって行動した在郷軍人会、右翼、政治家、軍国主義者、国内改革派、暴力集団らのグループであった。5.15事件のように直接的なテロ、暴力を加えたり、軍批判の言論報道には脅迫、威圧を交えて、記事の取り消しや謝罪を要求し、不買運動という新聞社のアキレス腱を攻め立てて、屈伏させていった。

「暗黒日記」(太平洋戦時下の昭和17年12月9日~20年5月9日)を残して、終戦を待たずに昭和20年5月21日に急性肺炎で死去した元朝日新聞記者・外交史家である清沢冽(きよし)は、昭和19年4月30日の日記に書いている。

「日本はこの興亡の大戦争を始むるのに幾人が知り、指導し、考え、交渉にあたったのであろう。おそらく数十人を出まい。秘密主義、官僚主義、指導者原理というようなものが、いかに危険であるかがこれでもわかる。
来るべき組織においては言論の自由を絶対に確保しなければならない。また議員選挙の無干渉も主義として明定しなくてはならぬ。官吏はその責任を民衆に負うのでなくては行政は改善できぬ」。今日の日本の言論の自由も危機に瀕している。
米国の知人のジャーナリストは言う。「大統領がメディアは<国民の敵>と繰り返し叫んでも、ジャーナリズムを希望する大学生は減っていない。減っていないどころか増える傾向にある」

謝辞:「朝日新聞」(2018年8月18日付)から主要な記事を引用させていただいた。お礼申し上げる。

(つづく)