三島通庸の墓(青山霊園)

栃木県での辣腕ぶり

明治16年(1883)11月、福島県令三島は勅任官となり、隣県の栃木県令も兼務することになった。55歳。三島はここでも有無を言わせない<鬼県令>だった。彼が手掛けた最初の公務は県庁の移転であった。県令赴任時の県庁所在地は栃木町(現栃木市)にあった。「県庁を県の中心部にあたる宇都宮に移すべきだ」との声が高まっていたが、栃木町はじめ県南部では移転に猛烈に反発し、現状維持を訴えた。河内郡長河郡は三島県令の県庁移転は実現可能とみて、町民を招集し募金などの具体策に入った。町民代表鈴木久右衛門らは「県庁新築の経費は私どもで金5万円を目的として募集」(栃木県史料)するとし、他に師範学校や監獄署などの移転で6万円を河内郡4万円、残る2万円を那須・塩谷・芳賀・上都賀4郡(栃木県の北部や中央部)で分担することになった。

県庁移転が宇都宮に正式に決定されたのは、明治17年(1884)1月21日であった。三島は直ちに庁舎工事の着手を命じ、100日余りで3層楼・和洋折衷の三島好みの豪壮な県庁が完成した。開庁式は9月15日を予定したが、民権家による政府高官暗殺との不穏な動きや、加波山事件の勃発により次々に延期され、やっと10月22日に挙行された。県令三島の県庁移転と庁舎新築は、民意を無視した独断即決で行われ、民権運動の弾圧を狙った政治策動とも見られた。加波山事件を頂点とする民権家の過激な行動は三島の薩長派閥的強権を背景とする剛腕さと無関係ではなかった。

(<参考>加波山事件とは明治17年(1884)、自由党急進派が茨城県の加波山に蜂起した事件で、福島事件に連座し三島の暗殺を狙っていた河野広躰(ひろみ、河野広中の甥)ら福島自由党員が、政府転覆を企てていた栃木県党員鯉沼九八郎らと結んで、大臣や顕官の暗殺を計画したが失敗した。後に茨城県下館の富松正安を頼って加波山に立てこもり警察署を襲撃した。次いで宇都宮の県庁を襲う途中警察隊と交戦し、多数が検挙され、7人が死刑となった。民権運動の激化の象徴的事件の一つだった)。

参考文献:「三島通庸文書」(国立国会図書館)、「山形県初代県令三島通庸とその周辺」(小形利彦)、「福島県の歴史」(山川出版社)、「栃木県の百年」(大町雅美)。

(つづく)