ケプロンの墓(ワシントン郊外、オーク・ヒル墓地)

産業と人材育成

同年8月に、翌明治5年(1872)から10年間で予算1000万円を支出するという「開拓使10年計画」が決定された。これは国内工事に関する国家財政の4~5%を占める巨額であった。国会財政における開拓使時代の北海道の比重の重さは明らかである。

10月、東久世長官は転出したが、長官不在のままで黒田次官が長官を代行した。黒田は屯田兵制創設により、明治7年(1874)には陸軍中将となり開拓長官に昇進し、政府の参議にもなった。黒田は部下に鹿児島県出身者を集め、典型的な薩摩閥の「黒田王国」が北の大地に現出する。「黒田王国」のもとで、アメリカが西部開拓のモデルとされ、北海道の近代化が推進されることになる。
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お雇い外国人ケプロンの実績は多岐に渡り、北海道の道路建設、鉱業、工業、農業、水産業など、開拓のほぼ全領域に渡っている。特に著名なものを記載する。北海道は寒冷地で稲が育たないため、麦をつくることを奨励した。同時に北海道ではパン食を推進すべきだと指導した。ケプロンが麦作を奨励したことは、後に開拓使麦酒醸造所(後のサッポロビール)が設立される遠因になった。 単に魚介類を採るだけでなく、塩漬けなどに加工すれば重要な輸出品になると進言している。進言に従い、1877年(明治10年)10月10日(ケプロン離日後)、日本初の缶詰量産工場である石狩缶詰所が設立された。この日(10月10日)は、日本では「缶詰の日」になっている。開拓使は道内沿岸部に次々とサケ缶詰製造工場を建設した。

ケプロンの進言に従い、札幌~室蘭間、森~函館間までの馬車道が整備された(室蘭~森間は航路)。この道は札幌本道と呼ばれ、現在の国道36号と国道5号の基礎となっている。ケプロンは、可能ならば札幌~室蘭間に鉄道も敷くべきだと進言したが、ケプロンの在日期間中には敷設されなかった。

ケプロンの実績として大いに評価すべきことの一つが、札幌農学校の新設である。彼は札幌と東京とを中心とする高等農業教育機関としての学校の必要性を黒田に説いた。それは開拓使仮学校として東京・芝増上寺内に創設され、同時に北海道においてはこの学校卒業の男子学生とともに開拓事業に従事させる目的で女学校を併設することも建言し、実行に移された。この仮学校は明治8年(1875)になって東京から札幌に移り、マサチューセッツ農科大学学長・農業化学者ウィリアム・クラークを明治9年に招いて設立した。初代教頭クラークの方針に従いキリスト教を教育の柱に据えた官立学校となって開校した。同校はあたかもミッションスクールのようにクリスチャンの学者や研究者を輩出する。佐藤昌介、内村鑑三、新渡戸稲造、廣井勇、宮部金吾ら偉才を世に送り出した。中でも廣井は土木、建築の両分野にまたがる港湾工学・橋梁工学の世界的な権威となるのである。
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当初長官黒田は、ケプロンの雄大な開拓構想に従い、土地測量や道路整備など、移住者受け入れのための基礎事業を重視していたが、明治6年11月にケプロンの批判を無視して基礎事業の一応の完了を宣言し官業中心の産業振興に力を注ぎだした。急迫する財政事情のもとで、黒田は一刻も早く開拓の成果を生み出さねばならないとの焦りがあった。ケプロンは明治8年5月に任期を全うして帰国した。時に70歳の高齢であった。

帰国後のケプロンはいっさいの公職に就かず、日本の知人と連絡を取りながら、余生を送った。黒田もケプロンの立案した「開拓10年計画」の事業成績の概要をワシントンに住む彼に送り、彼の計画指導が適切であったことを感謝した。1885年(明治18年)2月21日、ワシントンの誕生日に「ワシントン記念塔」の献納式が催された。ケプロンも招かれて、栄えある式典に参列したが、その日帰宅してから倒れ、翌22日80歳の長寿を得て、ついに帰らぬ人となった。日本を去ってから10年後であった。ケプロンの遺体はワシントン郊外のオーク・ヒルに軍人の礼をもって葬られた。