EOCが超多忙になる

ニューヨーク市のEOCは、クライシスの震源地であった。最初の数日間は、大洞窟のような倉庫は、あまりに慌ただしくあまりに騒々しく、自分自身が考えていることも聞き取れないほどであった。地球上の最も忙しい部屋は、さらにもっと多忙になろうとしていた。

テロ攻撃後の火曜日、プリンストン大学構内と通りの向かいのニュージャージー州、プリンストン、ナッソー通り10番の郵便受に5通の手紙が配達された。これら封筒の宛名は、すべてニューヨーク市に所在するABCニュース、CBSニュース、NBCニュース、ニューヨーク・ポストおよびフロリダ州、ボカ・レイトンにあるナショナル・エンクワイヤーになっていた。それらには、粗い褐色の粒状の物質が入っており、非常に致死作用のある兵器化された炭疽菌胞子であると判明した。まもなく5名が死亡した。

数週間後の11月12日、ドミニカ共和区国のサント・ドミンゴへ向かっていたエアバスA300がクイーンズ区のジョン・F・ケネディ空港を飛び立って間もなく墜落した。この航空機は方向舵が故障し、同じクイーンズ区のベル・ハーバー近くに機首から突っ込んで墜落した。搭乗していた260人全員と地上に居合わせた5人が死亡した。米国本土で発生した航空機事故で、史上二番目に多くの犠牲者を出した事故であった。

2001年が終わると、世界がばらばらに剥がれているように思え、OEMは多数のクライシスの重圧に撓(たわ)み、あたかもドラゴンの群れに包囲され殺される運命にあるように、次から次へと解決しなければならい白熱した問題が押し寄せ、つぶされそうになっていた。

しかし、OEMはチームとして結束していた。彼らは回転式住所録を見て、誰でも助けてくれる人たちに連絡した。ノーと言った人はほとんどいなかった。彼らは冷静さを保っていた。何が起こっているのかをみんなに伝えた;彼らが戦いのリズムを取ったのである。誰も答えることのできない問いに答え、誰も解くことのできない問題を解いた。

彼らは、崩れ倒れることなく、地面をしっかりと踏ん張って-1000スクエア・フィート(93平方メートル) の演壇の上にーカオスのど真ん中に立っていた。

彼らは、耳をつんざくような騒動の中で、ほぼ1年間1日24時間働き耐え抜いた。2001年は、ニューヨークの歴史において最悪の悲劇の年である。それは、またOEMそしてニューヨーク市にとっては勝利した年だったのである。

新しいボス

マーク・グリーンは元は社会的弱者を支援する弁護士で、市政監察官であり、9月11日の午前中に予定されていた市長の予備選挙では非常に人気が高かった。予備選挙は延期され、再び元に戻ったときには、政治の状況はニューヨークの他のすべてのことと同様に変わってしまっていた。民主党員が共和党員より9対1で多いこの市では、マイケル・ブルームバーグには勝ち目はないと誰もが知っていた。しかしながら、ジュリアーニの支援と自らの6900万ドルの資金で、50%対48%という今世紀で最も僅差の市長選挙でグリーンを破った。

OEMは、全く新しい世界観を持ったボスを得ることになった。ブルームバーグも、ジュリアーニのように積極果敢であるが、高圧的ではなくほとんど無党派であった。彼もまた結果を要求したが、彼を取り巻くチームは、現場感覚と課題と解決策を把握する直感を持たず、使われたデータを持っているだけであった。

そして、クライシスは押し寄せてくる。
私は2003年に衛生局を去ったが、2006年2月に市政府にOEMの副長官として戻ってきた。着任した最初の週に、EOCを稼働させた。ニューヨーク史上で最大の冬嵐(ブリザード06と呼ばれる)が東南部を雪埋めにして、暴風、吹き溜まり、太腿までの積雪が輸送機関をストップさせ、電力を遮断し、14州の数百万人の住民の生活を混乱させたのである。

この年が終わるまでに、われわれはもう一つの炭疽菌の脅威、アッパーイーストサイドのタウンハウスの爆発倒壊、真夏の熱波襲来のときの停電10日間、そして東72丁目のコンドミニアムタワーの30階の窓を突き破って飛行機が衝突した事故に遭遇することになった。

翌年は、マンハッタンのレキシントン通りと東41丁目の交差点近くので、スチーム管の破裂事故により1名が死亡し20名が負傷した。

その翌年は、マンハッタンの東側に沿ってタワークレーンが倒れ、US航空1549便(ハドソン川の奇跡)の双発のエンジンがともに故障したため、西42丁目の先のハドソン川に緊急着水した。

2010年4月には、豚インフルエンザがクイーンズ区のセントフランシス予備校の学生達で検出された。同年9月には、竜巻がブルックリン、クイーンズ、スターテン島を襲い、2011年8月にはハリケーン・イレーヌがコニーアイランドに上陸した。

私の在籍したほぼ8年間に、毎年500件の事件や事故と、ほぼ毎月発生する大規模事故に対応したのである。

経験からのみ得られる洞察力

ニューヨークにおける9/11後の期間は、巨大災害の特徴とそれにどのように対応するのかを学んだ近代都市の歴史の中でも、他に例を見ない。

われわれは、毎年10回以上、ニューヨーク市のEOCを核としたグレートマシンを稼働させた。われわれがパラレルな宇宙の中にいる時は、そこで働くには何が必要かを、そして物事をやり終えることがいかに難しいかをわれわれに示してくれた。成功と失敗は、災害発生直後の数時間のうちに、われわれがやったことやらなかったことによって決定されることを学んだ。

われわれは、言い訳は無価値であることの苦い経験によって学んだ。なぜなら、失敗に言い訳はあり得ない、失敗は、そもそも選択肢にはなりえないからである。

最も重要なことは、「残忍な悪魔」とそれが持つ武器、特に、サージという最も恐ろしい兵器を知ることになったことである。われわれは、多くのことを同時に、どのように実行するのかをすでに知っている。しかし、このサージは、どのようにしてすべてのことを同時にやるかを考えだすことを強要したのである。

われわれは、多くの意味で幸運であった。9/11以降われわれの規模は2倍になり、スタッフも70人から150人に増えた。われわれは、3つの現場に同時にチームを派遣できる充分なスタッフを擁していた。われわれはいつも疲れ切っていたように思われたが、行動不能には陥っていなかった。そして、どのクライシスにおいても、われわれのネットワークと道具を作り上げた。

われわれは、他の政府や民間部門、非営利団体、信仰団体などから、彼らの日常業務から引き抜いて人やチームを招集して、迅速に大規模な体制にする専門家になった。

われわれは、連携し、創造的に働き、問題を解決し 決断し、瞬時に行動できるために、統一された目的を持って人々を結束させて、グレートマシン(正式名、災害対応機関としても知られている)に彼らを呼び集めたのである。

われわれは知らなかったことであるが、 同じ時に1万マイル離れた所で、重要な使命を帯びたもう一つのチームが同じ教訓を学んでいたのである。

(続く)

翻訳:岡部紳一
この連載について http://www.risktaisaku.com/articles/-/15300