(写真:Shutterstock)
「血のように赤い9月の夜明けに、百日もの雨の無い日の後、乾いた草原の火のように広がった・・・」
              ―ウイリアム・フォークナー『乾いた9月』

それはフィッシュ・ランチ・ロードで始まった

1970年の夏は誰が思い起こしても最も暑い夏であった。海岸から離れた丘陵地帯や山岳部では、来る日も来る日も華氏100度になった。カリフォルニアは干ばつで有名であるが、その年は夏が深まっても雨が降らなかった。6月以降、一滴の雨も。

そして内陸の砂漠から強く高温の東風、ときにハリケーンのような突風となるディアブロが吹いた。それは一日中吹き、森とその中にある全ての物―灌木、草、樹皮、土さえも焼き尽くした。

9月がそのように過ぎた。風は吹き続き、土地は乾燥し続けた。湿度が2%以下になったとき消防士たちは前途に尋常ならざる闘いを予感した。彼らは細々したことを片付け、コーヒーを注ぎ、腰を落ち着けて、不安な気持ちで待った。

そして、そのときが来た。

「カリフォルニア州オークランド、1970年9月22日。放火によると思われる火災は風に吹かれて、今日バークレーの丘に燃え上がった」
                     ザ・ニューヨーク・タイムズ

カリフォルニア大学バークレー校の東側、オークランド・ヒルを通るフィッシュ・ランチ・ロード沿いの乾燥した草に何者かがマッチで放火した。数分のうちにコヨーテ草と松の木に燃え移り、ディアブロの風に追い立てられた火炎は尾根の頂から吹き飛ばされて、サンフランシスコ湾を望む急な斜面に建つ家々に飛び移った。

2時間のうちに36軒が焼失し、37軒が炎上した。熱があまりに強烈であったので家屋は火が付く前に爆発した。しかしそれは始まりに過ぎなかった。収束までには2週間がかかった。そのときまでに58万エーカーが焼かれ、16名が死亡し、722軒が破壊された。

発災から13日後に消防士たちは災害を抑えることができた。それは緩慢で執拗な収束であり、サンバーナーディーノの北側の丘陵、3万4000エーカーに及ぶマイヤーズ森林火災の爆発ガス警戒係は、火災は完全に防火帯で包囲されたと宣言した。

消防士たちは困難な状況に直面して素晴らしい仕事をした。彼らの英雄的な努力にもかかわらず、人々は破壊の規模に驚愕した。災害対応のマネジメントに問題があったのではないかとされたために、消防機関が批判にさらされた。

正式な調査により一連の過ちが災害を悪化させたものと判明した。それらは戦術のミスでも資源の不足でもなく、マネジメントとコミュニケーションの失敗であった。

対策を検討するためにニクソン大統領は火災防止制御全国諮問委員会(National Commission on Fire Prevention and Control)を設置した。1973年5月、委員会は”アメリカは燃えている“と題されたレポートを公表し「火災は重大な国家的問題である」と結論付けた。

議会は米国農務省林野部に“緊急事態のために組織された南カリフォルニアの消防資源のプログラム(Firefighting Resources of Southern California Organized for Potential Emergencies program: FIRESCOPE)”と呼ばれる5カ年の研究計画に資金の提供を行うよう命じた。FIRESCOPEの研究チームは「火災の災害はそのように広範囲に及ぶものであり、そんなにも多くの別々の消防署の消防車を巻き込むものであるので、調整の機関が必要である」との意見を答申した。

そうしてFIRESCOPEは新しい防災マネジメントのシステムを創設した。インシデント・コマンド・システム(緊急時総合調整システム)あるいはICSと呼ばれるものである。