歴史上の感染症と同じ状況発生

これらの資料では、遺体の処理がいかに難しいかが述べられている。それは感染症の場合、遺体にはウイルスがまだ生きていて感染力を発揮し、感染源となるからである。もちろん、遺体なのでせきやくしゃみはしないが、特に呼吸器系(鼻水、唾液、たんなど)から体液や汚物が出てくるので、死後遺体を放置せず直ちに処理することが望ましいとされている。

そのため死者が急増して、遺体の処理にはいつの時代も手こずった。死んだ当事者も縁者も、絶望感を通り越してしまう。これは避けねばならない。現在のコロナウイルスの場合も、同じ状況が発生していることが報じられている。

臨終といえば通常、誰かがそばにいて手を握り、励ましの言葉をかけ別れを惜しむが、コロナのような感染症の場合、そうはいかない。ガラス越しに防護服を着て遠くから病人をのぞき見し、声掛けもできない。さらに亡くなった方々への通夜や葬式を飛び越えて、いきなり病院が手配した火葬場へ直接連れていかれ、遺族は立ち会うこともできず遺骨になる。

納棺もできず、気密性の高い袋に密封されて、その他大勢とともに地下の穴に積み重ねて葬られるかもしれない。遺体が火葬場の収容能力を超えた場合、そうなる可能性が高いだろう。

ちなみに、厚生労働省から感染症で亡くなった場合は非透過性納体袋(材料は軟質ポリ塩化ビニールで防腐剤のフェノールなどが使用されていて、中から体液や血液などがにじみ出ないような強い材質である。横須賀市などの市では備蓄されている)に遺体を入れ、密封する処理方法が指示されている。

このような現状で、私はコロナでの死には大きな恐怖感を感じる。1カ月あまり家にこもりきりで我慢していたが、昨日火急の用事のためバスで外出した。バスの車窓から見たものは、若者たちの姿であった。

地元の市民は感染症を恐れて出向かない河川敷の桜の下で、若者同士が手をつないで仲良く花見をしていた。別のグループは円座を組み談笑していた。なぜ、そんなに気楽で落ち着いていられるのか。世界がどん底の地獄に瀕している時に、自分は関係ないと言っているように見える。あなた方も明日は我が身ではないのか。

感染を広げないために「他者への想像力」を持つべき

締めくくると、以下の言葉に尽きる。「大事なのは他者への想像力である。〜中略〜想像できない人はいない。同時に、勇気を持てない人もいない。正当にこわがることは確かに難しい。それは人間の限界でもあるが、私たち人間の可能性によってパンデミックと対峙することもできる。いずれも私たち人間の側面である――押谷 仁(東北大学大学院医学系研究科教授)」(瀬名秀明監修.鈴木康夫著.インフルエンザ21世紀. 425〜426ページ. 文春新書. 2009)