さらに中越地震被災者へのヒアリングの経験から、避難先には恐らく人数分の食器はないこと、調理を行う場所も確保しにくいことを想像していましたので、野菜は事前に切り刻んで現地で水を注げば調理できる状態で持っていくことが望ましいと分かっていました。

そこで、地元団体の「暮らしの会」のメンバーに声をかけ「富岡救援隊」の想いを伝えました。暮らしの会の皆さんは私たちの想いを理解して申し出を快く引き受けてくれ、地区センターの調理室をお借りして食材を切り刻んでもらいました。早朝より地域を駆け回り、作業を進めてきましたが、気付けばもうとっぷりと日が暮れていました。甚大な被害が出ている箇所もあるかもしれない中での夜間走行は危険と判断し、翌朝に出発することにしました。

地区センターで暮らしの会さんが1000食分の野菜を刻んでくれました

私たちが地域を駆け回り、1000食分の食料を準備している間に事態はもっと深刻になっていました。3月12日、15時36分、福島第一原発1号機建屋の水素爆発。テレビ画面に映し出された灰色の煙をあげて建屋が吹き飛ぶ姿を見て誰もが、これは現実なのか、とその目を疑ったことと思います。

しかし、その当時、原発や放射能に対して知識のある人はそんなに多くなかったと思います。私たちもその一人でした。ですので、作業をしながらもそんな報があると耳には入っていましたが、困っている仲間を支えに行かなければ!という想いだけが私たちを強力に突き動かしていました。

明日の出発に際し、杉戸町長の古谷松雄町長に電話を掛けました。私たちが「富岡救援隊」を結成し、1000食分の食料を現地へ届けるために動いているということ。しかしICが閉鎖され、一般車両では通行ができないということ。を伝えました。古谷町長はすぐに事態を理解してくれ、明日の朝役場に寄って欲しいと電話を切りました。

翌日、朝一番で杉戸町役場に立ち寄りました。そして古谷町長から「こっちも動いているから、みんなを頼むよ」という言葉を託され、通行許可証というものはないものの、自身の名刺に公印を押したものを受け取りました。

杉戸町を出発したのは午前8時。

杉戸町から福島へ向かうには東北自動車道で北上するのが最短ルートです。間近のICへ向かいましたが、閉鎖されていました。私たちの事情を説明しましたが、係員は取り合ってはくれませんでした。東北自動車道は全面通行止めだったのです。一般道で向かうか?とも考えたのですが、一般道の状況は情報錯綜が著しく、道路情報は全く分からずこれでは現地へ向かうことはできません。そんな時、ICの係員が一言「支援車両であれば通行できるかもしれませんが…」そうぽつりと言いました。「そうか!」それを聞いて私たちは通行許可を管轄している警察署があることを聞き、そこへと向かいました。

未曾有の事態にどの機関も混乱を極めていました。その警察署も同様でした。そんな中でも私たちは自分たちの想いを説明し、町長が託してくれた名刺を見せ、を渡し、通行許可を出してくれるよう懇願しました。どれくらい時間が経ったでしょうか、長い間待たされました。署内でも情報が錯綜している中で判断に苦慮したことと思います。それでも私たちの想いと行政長の名刺の意味を理解してくれ、ようやく東北自動車道に乗ることができました。すでに正午過ぎ。出発から4時間も経過していました。

(つづく)

(了)