一茶の第二の郷里・東葛地方~知人(しるひと)いくら~

ここで話頭を転じる。

私は、江戸後期を代表する俳人小林一茶(本名弥太郎、1763~1827)を愛する。一茶の東葛地方(千葉県北西部)との関わりを論じたい。中でも、江戸川とその洪水を一茶がどうとらえたかを考えたい。

一茶は宝暦13年(1763)、信州の豪雪地・柏原村(長野県信濃町)に生まれた。翌々年、実母が亡くなる。8歳になった明和7年(1770)、継母が来て安永元年(1772)異母弟専六(「仙六」とも)が誕生した。家庭内の雰囲気が嫌悪になる。安永5年(1776)、一茶が14歳の時、祖母かなが他界する。一茶の「かばい役」がいなくなり、継母との間が一段と気まずくなった。翌安永6年(1777)、彼は江戸に奉公に出されてしまう。一茶と継母との間柄を心配した父弥五兵衛の判断であった。江戸に出てからの一茶の足跡は不明な点が多い。信州の寒村から出てきた一茶は「椋鳥(むくどり)と人に呼ばるる寒さ哉」との切ない句を残している。俳句を葛飾派(素堂)の二六庵竹阿に学び、俳人として頭角を現わすようになる。

しばらくして、一茶は東葛地方(現松戸市・流山市・柏市)にしきりに脚を運ぶようになる。江戸川を上り下りする船をよく利用した。(「関宿船中」と前書きして「暑き夜の荷と荷の間に寝たりけり」の句がある。江戸川を夜くだる六斎船を利用していたことをうかがえる)。それは一茶の俳諧仲間であり、同時に頼りになる後援者(パトロン)がいたからであった。馬橋(松戸市)の俳人大川立砂(りゅうさ、平右衛門)の邸宅で暮らしたり、流山(流山市)の同秋元双樹(そうじゅ、5代目三左衛門)の豪邸に厄介になったりしている。

大川、秋元の両家は東葛地方を代表する豪商で、大川家は油屋、秋元家は造り酒屋兼味醂醸造業である。立砂と双樹はこの地域を代表する文化人でもあり、大川家では立砂の子息斗囿(とゆう、吉右衛門)が俳諧の道に入り、一茶の門弟となっている。流山の秋元双樹が「俳諧草稿」をまとめたのは文化元年(1804)だが、この頃から一茶の流山入りが急に多くなる。一茶の著書「文化句帖」(句日記)や『七番日記』によれば、文化元年から双樹が亡くなる文化9年(1812)10月までの9年間に42回も訪ねている。秋元家には2日間から3日間身を寄せるのが常だった。40歳を超えた中年の一茶は、生活の根拠を江戸に置きながらも東葛地方を活躍の舞台にしたのである。

・かつしかに知人(しるひと)いくら梅の花「享和句帖」
 東葛地方の俳人たちに会うのを心待ちにしている気持が表れていよう。

大洪水~流残りのきりぎりす~

東葛地方は利根川や江戸川の直接影響を受ける流域である。両大河の大きな恩恵を受ける半面、大洪水という自然災害の犠牲にもなった。一茶は江戸川をどう描き、中でも洪水やその惨状をどのように描写したのだろうか。

享和2年(1802、一茶40歳)の句、
・洪水の尺とる門よ秋の風
・助舟(すけぶね)に親子おちあふて星むかひ

2句とも私の愛唱する作品である。この年6月から7月にかけて、全国各地で水害が頻発し物価は高騰した。一茶が住む江戸下町でも大洪水に襲われている。2句とも、大水害にあって全てを失った被災者の惨状を温かい視線でうたっている。2番目の句の「星むかひ」には惨事の中でも生きる望みを失わないでと祈る一茶の被災家族に対するシンパシーが表現されている。心打つ作品である。この大水害では町奉行所はじめ船手方、代官などが500隻もの船を集めて救助にあたり各地で炊き出しを行なった。9月になってようやく落ち着き一茶は秋雨の道を利根川べりの布川に旅だった。その時の句、
・越後節蔵に聞へて秋の雨
 越後から来た杜氏たちが歌う越後民謡が、秋雨の蔵の中から聞えたのである。

文化元年(1804、一茶42歳)の句、
・刀禰川(とねがわ)は寝ても見ゆるぞ夏木立
 この句は水害とは関係ない、真夏のゆったりとした暮らしをうたっている。流山の双樹邸から見た利根川の風情であろうか。利根川は明らかに今日の江戸川のことである。江戸時代後期になっても江戸川は利根川(または刀禰川)と呼ばれていたことがこれでわかる。今日、一茶双樹記念館から指呼の間に江戸川が流れているが、江戸川の川面は見えない。小高い堤防のためである。

・朝顔やたぢろぎもせず刀禰の水
同年9月1日のこの句には以下の前書きがある。「亦洪水2尺(約70cm)加わる。根本といへる邑(むら)の入樋より」。台風襲来である。洪水の急流に負けない朝顔に被災者一茶は勇気をもらったのだろう。堤防が切れる場所は入樋の場合が多い。一茶の観察は鋭い。この出水の翌2日の句帳には、前書きとして「水いよいよ増つつ川添の里人は手に汗を挙り足を空にして立さはぐ。今切れこみしほどの入樋、彼堤とあわれ風聞に胸を冷して家々の驚き大かたならず。」と記している。暴風雨が荒れ狂った。

・魚どもの遊びありくや菊の花
・夕月や流残りのきりぎりす
・我植し松も老けり秋の暮
私は「夕月や…」の句を愛唱する。一茶双樹記念館の庭園の句碑に彫り込まれている。大洪水の惨状を写しても、一茶の句調は絶望の淵に落ちこまない。人生の試練をにじませる哀愁が漂っていても、希望を与える調べが残されている。

参考文献:流山市・松戸市・柏市の各市立図書館資料、筑波大学附属図書館文献

(つづく)