江戸川全図(江戸中期、千葉県野田市立図書館蔵)

土木事業と親鸞の教え

小島庄右衛門は伊奈家の姻戚筋に当たり、利根川の流れの一部を江戸に南流させる新川開削を担当させられた。新川(江戸川)開削は、利根川東遷に関わる不可欠な事業として推進されたのである。

江戸川開削は寛永12年(1635)秋、着工された。周辺の農民らを駆りだしての人海作戦で行われた固い岩盤の台地を切り裂く工事は、幕府からの資金援助も限られていたこともあって10数年の長い歳月を要した。流頭部にあたる関宿から宝珠花を経て金杉に到る5里の水路を新たに開削し、これに太日川を接続させて、流れを江戸湾に注ぐ江戸川の原型が生まれた。

軟弱な地盤を避けて開削された20kmの人工水路は、江戸初期としては最長であり、江戸と関東・奥州(東北)を結ぶ最大の運河(約60km)が開かれることになった。江戸川は江戸中期頃まで「利根川」「新利根川」と呼ばれている。江戸川と呼ばれるようになるのは江戸中期以降である。当初江戸川を利根川本流にする予定だったのだろうか。

小島庄右衛門は江戸川の開削工事がひと段落した正保3年(1646)、江戸浅草の本願寺派・西照寺の僧玄覚を招いて同川沿いの吉妻村(旧庄和町)に小流寺を建立した。ここは掘削工事の元小屋(現場事務所)のあった場所でもあった。堤防の補強なども済ませて、最終的に新利根川(江戸川)が誕生したのは、明暦3年(1657)秋である。22年の歳月をかけた開削工事であった。同年11月19日、関宿藩重臣、伊奈家、小島家それに名主などの農民代表らが参集して竣工を祝った。庄右衛門から「小流寺縁起」が出席者に披露された。巻物は伊奈家の赤山陣屋(現川口市赤山)に近い蓮沼の小島家菩提寺の普門寺住職によって記されたものとされ、庄右衛門の素案に住職が荘重な和様漢文を用いて庄右衛門の親鸞の教えに支えられた「土木事業史」を記したものである。庄右衛門は70歳の高齢であった。

「縁起」の後半の部分を現代語訳(石川道彦氏訳)で引用してみよう。「…ある時、正重公(庄右衛門)の夢に真仏如来が現われ『汝、この土地を拓き、庶民百姓の窯をうるおす。誠に上品の慈悲上人である』と言われました。正重公は感激しておりますと、或る日、何処から来たとも知れない旅の僧が現れ、一巻の巻物を出して正重公に見せました。公が見ますと、青や赤の絵の具を用いて、何か描いてありますが、よくわかりません。よく見ますときらびやかな色彩、絶妙の筆で、幾体にも仏の頭上に一讃をかいてあります。山の名前などもあり、その僧は、始祖(親鸞)と同時代の人、または始祖と同門の人だとわかりました。正重公は驚いて、丁重な言葉で『その巻物をお譲り下さい』と請いました。僧は否とも言わず、巻物を下さいました。正重公は先に夢を見た真仏如来の御言葉と思い合わせて、これこそ夢のお告げに依って、ありがたい御像をいただいたのだ、と玄覚和尚と相談して、これを寺の宝といたしました。昔、中国の尊い導師が夢の中で釈迦のお骨をいただいたと同じ、国は違えど、仏閣の基は皆同じようです。…」

庄右衛門は晩年まで小流寺住職を勤め、寛文8年(1668)81歳で没した。同寺には庄右衛門の墓(埼玉県指定文化財)、木造の庄右衛門像などゆかりの品や文書が家宝として残されている。