1947(昭和22)年のカスリーン台風襲来後の風景。利根川、荒川などで多くの堤防が決壊し、葛飾区をはじめ東京の下町に大きな被害をもたらした(出典:Wikipedia commons)

東京都23区内の各自治体は、災害への対策に対して各地域に即した体制で過去の経験を活かしながら取り組まれています。地形、災害経験などハード・ソフト面の特性は1つとして同じ地域はありません。それぞれの地域で予測されていること、予防計画、また、今後の取り組みなど現在の状況を各行政区の方々、地域で防災に関する活動をされている方々に話を聞き、お伝えしていきます。

ご自身が住んでいるまちのことはもちろん、隣町や連携する可能性があるまちのことを改めて知っていただける機会となれば嬉しいです。第2回は、災害とまちの特性に向き合って、信念を貫き続けるお2人の葛飾区民の方のお話をご紹介します。

「水害への備えを呼びかけて50年。やっと形になってきた」(東新小岩七丁目町会会長 中川榮久さん)

子どものころにカスリーン台風も体験し、いまでも水害の恐ろしさを呼び掛ける東新小岩七丁目町会会長の 中川榮久さん。地域全体で川に親しみながら暮らし、ご近所の方が大きな魚を釣られました。

「1947(昭和22)年、カスリーン台風が発生。当時小学校6年生だった私は、この新小岩のまちで被害に遭いました。親父と2人で1階部分が水に浸かった家の屋根上で生活しました。隣の家では、民家2階の8畳1間にご近所の方、母、弟、妹など13人が避難していました。

そしてその中にいつもよくしてくれていたご近所さんが妊娠中の状態で生活していました。今にも生まれそうだったけど、病院に連れていくことができない…お産婆さんも呼べない…どうしよう…と子どもながらに眠れない日々が続きました。その時の情景が目に焼き付いています。

また、1964(昭和39)年に発生した新潟地震では仕事で被災地に行っていて、その時に初めて『液状化』という言葉を知りました。そして、台風や地震によって、東新小岩には、絶対に水が押し寄せてくる、そのために対策を考えないといけないと地域の中で訴えるようになりました。

しかし、皆、『おかしなことを言っている奴がいる』と相手にしてくれなかったんですよね。でも根気強く訴え続けていたら、納得してくれる人が増え、輪中会議にも参加できるようになったんです」(中川さん)。

輪中会議とは、新小岩北地区において、これまで10年間にわたって町会、NPO、専門家、行政などが中心となって行われてきた、大規模水害に備えるための様々な活動です。

2012年度から、これまでの関係者を中心に「新小岩北地区ゼロメートル市街地協議会」を組織し、進めてきた安全・快適まちづくり活動を地域全体に拡げ、かつ、発展させる場として「新小岩北地区安全・快適まちづくり輪中会議」を立ちあげ、10回にわたる会議を開催されました。

その設立者の方と中川さんが意気投合し、設立当初から一緒に活動を続けられています。「浸水と親水」という言葉を設立者の一人である東京大学生産技術研究所准教授 加藤孝明さんが提唱し、東新小岩七丁目町会でも合言葉となっているようです。水は来るかもしれないけど、水辺の生活を水に親しみながら楽しみ、いざという時は乗り越えていこうというメッセージが込められています。

その合言葉とともに取り組みを進め、新小岩北地区の各町会では、ボートを各町会一艇ずつ購入。水が押し寄せた時にも病人の搬送、避難が可能となりました。「まだまだ課題はあり、避難方法をしっかりと検討していきたいです。①縁故避難②集団避難③広域避難④垂直避難など各避難方法にもメリット・デメリットがある中、スムーズな避難誘導ができるように町会の中で日々話し合っています」(中川さん)。

50年続けてきて、協力者も増える中、地域の防災に対して考え続ける中川さんの根底にあるものを伺うと「ご近所の妊婦さんの大きなお腹から赤ちゃんが生まれてしまったらどうしよう…という想いが今でも心に残っています。

そのような状況になった時に一刻も早く病院へ運べるように取り組みを進めたいと思います。我々は何もすごくなくて、地域の方一人一人が一生懸命頑張っています。みんなで『浸水と親水』の考えで水と親しみながら生活していきたいと思います」とこれからの展望とともに語ってくださいました。

「組織改編そして訓練方法の変革。1つひとつ積み上げる」(金町睦町会会長 中野真逸郎さん)

「お世話になった地域の方に恩返しをしないと」と話す金町睦町会会長の中野真逸郎さん

 「そもそも行政からの指導で誕生した市民消火隊です。隊長は小火などが頻繁に発生していた近隣の商店街の方々が引き受けてくださっていました。しかしお店のことなどがあり、なかなか出動できない状況もあるので、町会全体で構成しています。役員のほとんどが市民消火隊の隊員になるように組織が変わりました。

また、少しでもいいから防災に興味を持ってもらえるようにまちかど防災訓練を年に4回〜5回各エリアで実施しています。日曜日の10時〜11時半頃までで終わる気軽に参加できる訓練です。何度か実施していると町会の担当理事の頑張りもあって、参加してくれる人が増えてきました。

訓練をしていると『灯りのない夜であればどうなるだろう』と疑問が沸いてきて、投光器を用意し、夜間の訓練も実施するようになりました。このように様々な場面を想定して、それに対する備えをどうしたらいいだろうとみんなで考えて1つひとつ取り組んでいます」(中野さん)。

中野さんは、出版社に勤められながら、学生時代に打ち込んでいたサッカーのコーチを地域で担われていました。サッカーを通して、まちの子どもたちと触れ合っていると町会の役員へのお誘いもあったと言います。

「当時はサッカーのコーチだけで精一杯。町会の役員は、引き受けることもできませんでした。しかし、仕事も落ち着いてきたら、『お世話になった地域の方に恩返しをしないとな』という想いが芽生えてきて、地域の活動に関わるようになりました」(中野さん)。

役員になってからは、まちの安全が気になり始め、「地域の安全と言えば、防災が一番取り掛かりやすいのではないかと考えて取り組み始めました。すると、決めることが多くてまだまだやることがたくさんあります」(中野さん)。

地域防災に目覚めてからは、組織編成から訓練の変革、そして若い世代への声がけを進め、防災への取り組みを進められています。「恩返し」という言葉が中野さんの口から出てきましたが、防災への取り組みを進める中野さんの根底にあるものをお伺いしました。

中野さんは佐賀出身で、東京都板橋区で長く過ごされました。ご結婚され、奥様のご実家がある金町へと転居されたとのことです。

「生まれた土地ではないからいわゆる『愛着』というものはありませんでした。でもサッカーのコーチなどを経て、地域の方にはお世話になっています。だんだんと地域への愛着が出てきて、何かお返しをしたいと思っています。私はボランティア人生なのです。母校の同窓会委員をしたりもしました。お世話になった人には恩返しをしたいという想いだけです」(中野さん)。

そう語る中野さんの今後の展望は、「いざという時のことをしっかりと考えて、そのための組織づくりのシナリオを書く。そしてその組織をつくっていくことです」と強く語ってくださいました。30代〜40代の世代がもう少しまちに関心を持ってもらえるように発信を続けたいと前向きなご意見もくださいました。

「誰かが動いてくれる」ではなく、「一緒に考える」ことが大切

葛飾区危機管理課の方々が「自助・共助係」を設立されたように、まずは、自分の命は自分で守る「自助」を意識する、そして、地域との助け合い「共助」ができる体制を日頃から構築するということが改めて大切だと実感しました。

体制を構築するというのは簡単ですが、誰かが動き出さないと何も始まらないことを中川会長と中野会長が体現してくださいました。

皆さまのまちでは誰がどのように動き始めていますか。1人ひとりが主体的に住んでいる土地の特性に親しみながら、各まちにあった対策を進め、災害に強い日本、東京、23区を創っていきましょう。

葛西優香がぶらりとお邪魔させていただいた時には、お話をお伺いできると嬉しいです。

(了)