駐英大使(後に首相)吉田茂は対英米開戦阻止を工作した(出典:Wikipedia)

駐英大使・吉田茂のパートナー

駐英大使・吉田茂の無二のパートナーが久朗だった。「評伝 吉田茂 中」(猪木正道)から一部引用する。「吉田大使が英国側を説得するため日本の国内事情を持ち出しているからには、機密(外交覚書)の漏洩は文字通り生命とりになる惧(おそ)れがあった。吉田茂は機密の保持が日英会談の成否を左右するものと考え、この件に関する文書は一切大使館員に見せず、自分一人で処理していた。

ある日、吉田大使はプロトコール役(儀典担当役)の三宅喜二郎外交官補に、机上の書類を整理するよう命じて帰宅した。三宅官補が雑然とした書類を整理していると、吉田大使の「覚書」が見つかってしまった。寺崎二等書記官がこの書類について質問した時、吉田大使はびっくり仰天したといわれる。そのうちどこから漏れたのか「モーニング・ポスト」紙に、日英会談の記事が出た。その時も、吉田大使は跳び上がるほど驚き、早速、大使は(交渉相手の)サー・R・クレイギーに対し「私の意見では、本国政府と一切を相談するため、私自身ができるだけ目立たないような形で日本に帰る時まで完全に機密を保持するのでなければ、到底成功の見込みはありません」と英国側も機密の完全な保持に努めるよう申し入れている。

昭和11年(1936)12月7日クレイギーは「大使の率直な話しぶりは、もし漏洩が起こった場合に文字通り致命的となりうるから、この会談は東京へ公電で伝えないよう提案する。この記録の写しを『機密親展』としてサー・R・クライブ大使のもとへ個人的に届けるのが精一杯と思う」という意見を書いた。このタイプライターで打った記録には、肉筆で次のような註がついている。

「漏洩に関しては、吉田氏は本人自身が考えているほど機密保持に熱心でなかったように思えてならない。『モーニング・ポスト』の記事を書いた記者は、日本大使館の晩餐会で、(大使館員ではない)有力な日本人からこの情報を得たと称している」。

右の「有力な日本人」というのは、当時横浜正金銀行ロンドン支配人として、英国政・財界で高く評価されていた加納久朗子爵ではなかったかと推測される。加納子爵は吉田大使にきわめて近い親英派の自由主義者で、金融・経済問題について大使の顧問格であった。恐らく大使館の晩餐会で、加納子爵は持前の磊落(らいらく)さから、日英接近工作について言及したのであろう。

吉田大使の日英接近工作は、ネヴィル・チェンバレン蔵相とウォレン・フィッシャー大蔵次官との2人を中心として進められたが、その背後には日英双方あわせて3人の重要人物がいた。英国側は言うまでもなくリース=ロス大蔵省顧問であって、彼を中国に派遣して、幣制改革を推進させるという案に吉田茂が重要な役割を果たした。日本側の人物は「モーニング・ポスト」への漏洩問題で記者の取材源になったのではないかと推測される横浜正金銀行支配人の加納久朗子爵である。加納子爵は4分の1世紀近くイングランド銀行総裁の任にあったモンタギュー・ノーマンとも親交があり、吉田大使と英国金融界とのパイプ役となっていた。

英米協調派の敗北

昭和13年(1938)の近衛内閣による「爾後(じご)中国の国民政府を相手とせず」との「大失態」(久朗)の声明により日本外交は混迷の度を深め国際的孤立化の瀬戸際に立った。日本の政界や軍部の支配層の中にはドイツやイタリア(フアシスト国家)と手を結ぼうとする勢力が台頭してきた。外交官・吉田茂は中国問題について強硬派ではあったが、英米との決裂は絶対に避けるべきである、とする英米協調派であった。吉田と共同歩調をとったのが国際経済人加納久朗であった。

「外交と金融とはその性質を同じうする。いずれもクレディット(信用)を基礎とする」。吉田茂が久朗に贈ったことばである。昭和14年(1939)10月、吉田茂は駐英大使を免職となり同年暮に帰国した。以後、彼は特別の役職には就かなかった。岳父牧野伸顕などを通して宮中内部や政界に働きかけ、日独伊三国同盟を阻止するため英米派として活動した。陸軍大将・宇垣一成を首班に擁立しようとした行動もその一環であった。一方、ロンドンに残った久朗はイギリス政財界人との接触を深めていった。吉田の駐英大使時代には共にイギリスの親日派に働きかけ、吉田の帰国後はイギリス政財界の動静を書信によりしきりに通報している。帰国した吉田は「自由主義者」として身柄を拘束される。

昭和15年(1940)8月下旬から、ドイツはロンドンに猛烈な爆撃をくわえた。特に9月8日夜からの爆撃は激しいものであった。横浜正金銀行ロンドン支店の近くにも数発着弾したが被害は軽微で済んだ。同年11月24日、英米協調・戦争回避を訴え続けた元老・西園寺公望が他界した。享年90歳。西園寺は国葬をもって遇された。作家永井荷風は「怪しむべきは目下の軍人政府が老公の薨去(ルビこうきょ)を以て厄介払いとなさず、かえって哀悼の意を表し国葬の大礼を行わんとす。人民を愚にすることも又甚だしというべし」と批判している。(「断腸亭日乗」昭和16年11月27日)。

昭和16年(1941)12月8日、日本国内では朝7時、ラジオ放送が臨時ニュースで「帝国陸海軍は今8日未明西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」と報じた。朝6時過ぎに内大臣・木戸幸一は侍従武官から電話で起こされて、海軍がハワイを攻撃したことを知らされた。「11時40分より12時迄、(天皇陛下に)拝謁す。国運を賭して戦争に入るに当りても、恐れながら、聖上の御態度は誠に自若として些(いささか)の御動揺を排せざりしは真に有難き極なりき。宣戦の大詔(たいしょう)は渙発せられたり」(「木戸幸一日記」)。久朗は前日まで日英の開戦を回避させようとイギリスの有力者に果敢に働きかけた。彼の懸命な努力も水泡に帰した。

「私のロンドン記録(My London Records)」(加納追想録、原文英文)で久朗は記す。

「1941年12月8日月曜日は悲劇的な日であった。日本と英国の間に戦争が勃発した。私はプリンセスゲートの自宅マンションを午前7時に出て9系統のバスに乗りシティ(金融街の勤務先)に向かった。私はオフィスに着くや否や、10人の日本人部下を部屋に呼んで、この時期の最も重要なことは『健康と品位だ』と全員に伝えた。私は英国人の部下や使用人(併せて60人、30人は既に軍隊に入隊していた)に『極端に悲しい事態が、私に意に反し、また私の動きに逆行して発生してしまった』と伝え、彼らに過去の友情や支援に感謝し、平和な時が早く戻るよう祈りたい、とも伝えた」

太平洋戦争突入後、横浜正金銀行のニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シアトル、ホノルル、ボンベイ、カラチ、カルカッタ、シドニーの各支店が閉鎖された。ロンドン支店はドイツの対英攻撃と対日資産凍結により国際金融の中心地から外れて機能しなくなった。加納は敵国人としてイギリスの強制収容所に入所させられた。

(参考文献:千葉県一宮町教育委員会蔵「加納家史料」、拙書『国際人 加納久朗の生涯』、『吉田茂書翰追補』((財)吉田茂国際基金)、国立歴史民俗博物館資料)

(つづく)