防災倉庫を案内する崔敏夫氏
高層マンションが立ち並ぶ新長田駅から北西に10分ほど歩き、新しい住宅街を抜けると千歳公園が見えてくる。この公園には「千歳復興の礎」と刻まれた石碑がある。阪神・淡路大震災で命を失った千歳地区の住民47人を追悼し、その教訓を後世に伝えるためだ。千歳地区連合自治会副会長を務め、自主防災福祉コミュニティ委員長の崔敏夫氏は「阪神淡路のときに助けてくれたのは近所の人たち。消防も自衛隊も来なかった。近所で団結して助け合えるかが大切だ」と地域コミュニティの重要さを語る。


神戸市須磨区の西側にある千歳地区は、合成皮革と合成樹脂でつくるケミカルシューズで有名な長田区に隣接し、靴の製造が盛んな地域だった。長田区と須磨区でつくられるケミカルシューズのシェアは日本で70%を越える。阪神・淡路大震災が起こるまでは中・小規模の事業者と古くからの長屋が密集して建ち並んでいた。崔氏も長年、この地で靴製造を担ってきた1人だ。しかし、1995年1月17日に風景は一変した。震度7の強震により9割以上の建物が倒壊し、長田区側から延焼してきた火が地区を燃やし尽くした。地域の工場にはケミカルシューズに使われるビニールやゴムなどの可燃性の材料が多くあり、火災は2日間にわたった。崔氏の住んでいた長屋は1階が倒壊。2階部分がそのまま下を押し潰し、次男の秀光さんが犠牲になった。成人式のために東京から帰省している最中だった。

千歳地区周辺の震災復興土地区画整理事業が完成したのは2005年。町並みとともに住民の顔ぶれも大きく変わった。ケミカルシューズは裁断、縫製、底付けなど数多くの工程を重ね生産され、各工程を地域内で分業してきた。仕事のつながりがそのまま地域のつながりとなり、結束は固かった。しかし、千歳地区は借地人や高齢者の割合が高く、阪神・淡路大震災のダメージでケミカルシューズ産業も衰退したため、多くの人が千歳地区での再建をあきらめ移住した。