海舟の自己鍛錬、柔術と剣道

青年・勝麟太郎が、柔術(今日の柔道)を一所懸命稽古していたことを示す一つの文献が残っている。勝家文書の中に、表紙に「武蔵野國住人・勝麟太郎義邦」とだけ認めた、小型の和紙長方型の小冊子がある。その内容が、柔術の秘伝書の写しなのである。見開きに、

風□息虚空□心
目眼海山かけて、我躯なり
これのみと思ひきわめそいく数も
上に上ある 吹毛の剣
霊剣伝解夫れ人の天に稟(う)くる所の性は純霊のみ(口は読解不能文字)

とある。そして「他見ヲ禁ズ、秘書」として

為勢自得天真流術書
崖下初寸水月明星
膀光釣鐘松風村雨
明ケ間焉免独錮稲妻

と秘伝の書目が並べてあって、次に柔術のこまごましたワザの伝授と心得らしきものが、200字詰め原稿用紙に写して28ページ分ばかりが書き写してある。

江戸後期、麟太郎が15~16歳ごろ、柔術に熱中していた証拠と見てよいであろう。浅草新堀の島田虎之助の道場では、剣術の打ち合いの後は、かならずといっていいほど竹刀を捨て、組打ちをやる。上になり下になり、しまいには相手の喉を締めて気絶させる。すると師匠の島田が上座から降りて来て、活を入れて蘇生させる。そういう方式をとっていた。これは柔道と剣道との組み合わせであるといえよう。それを「天真流」といったのではないか。海舟自身が追想する。

「本当に修行したのは、剣術ばかりだ。全体、おれの家が剣術の家筋だから、おれのおやじも、骨折って修行させようと思って,当時剣術の指南をしていた島田虎之助という人についた。この人は世間並みの撃剣家とは違うところがあって、終始、『今どきみながやりおる剣術は、型ばかりだ。せっかくのことに、足下は真正(ほんとう)の剣術をやりなさい』といっていた。それから島田の塾へ寄宿して、自分で薪水の労をとって修行した。寒中になると、島田の指図に従うて、毎日稽古がすむと、夕方からけいこ着1枚で、王子権現にいって夜げいこをした。
いつもまず拝殿の礎石に腰をかけて、瞑目沈思、心胆を錬磨し、しかる後、立って木剣を振り回し、更にまた元の礎石に腰をかけて心胆を錬磨し、また立って木剣を振り回し、こうゆうふうに夜明けまで5、6回もやって、それから帰ってすぐに朝稽古をやり、夕方になると、また王子権現へ出掛けて、1日も怠らなかった。
始めは深更にただ一人、樹木が森々と茂っている社内にあるのだから、なんとなく心が臆して、風の音がすさまじく聞こえて、覚えず身の毛が立って、今にも大木が頭の上に倒れ掛かるように思われたが、修業の積むに従うて、しだいになれてきて、後にはかえって寂しい中に趣があるように思われた。
ときどき同門生が2、3人はいることもあったが、寒さと眠さとに辟易して、いつも半途から、近傍の百姓家をたたき起こして、寝るのが常だった。しかしおれは、ばか正直にそんなことは一度もしなかったよ。修業の効は瓦解(幕府崩壊)の前後にあらわれて、あんな艱難辛苦に耐えて、少しもひるまなかった。
ほんにこの時分には、寒中足袋もはかず、袷1枚で平気だったよ。暑さ寒さなどということは、どんなことやらほとんど知らなかった。
ほんに身体は、鉄同様だった。今にこの年になって、身体も達者で、足下も確かに、根気も丈夫なのは、全くこの時の修業の余慶(おかげ)だよ。」(「氷川清話」)。
                 ◇
「内憂外患」の江戸後期に、蘭和対訳辞書「ヅーフ・ハルマ」(3000ページ、語数9万余、58巻)の大冊を一人で手写した人はまず少ない。まして2部写した人というのは、古今東西、勝麟太郎ただ一人であろう。麟太郎は、才人の佐久間象山や福沢諭吉も、さすがに手を付けなかった「ヅーフ・ハルマ」の筆写を、いち早く弘化4年(1847)の秋に手を付け、1年がかりで翌年の秋に仕上げている。しかも2部を筆写し、1部は売ってその費用に充てたというのである。「ヅーフ・ハルマ」が完成したのは天保4(1833)年であるから、まだ10数年しかたっていない。写本としても早い方である。それに何という根気、何という意地、驚くべき執念ではないか。しかも当時、貧乏のどん底にあって、夏には蚊帳もなく、冬は布団なく、ただ机にもたれて眠る。それに母は病床にあり、妹たちはまだ幼く、頑是なく、彼が掾(えん)や柱を割って燃料として炊事をしたりした。困難極まって、かえって勇気がわいてきて、とうとう1年間に2部写すことができた。海舟の心身を鍛錬する集中力には驚くしかない。彼は指導者・教育者としても秀でていた。