2011/05/03
事例から学ぶ
工場壊滅の被害を乗り切る
津波被害から1週間で事業再開
東日本大震災で津波により壊滅的な被害を受けながらも短期間で事業を再開させた企業がある。宮城県名取市でリサイクル業を営むオイルプラントナトリ。地震発生直後の適切な避難指示と、あらかじめ定めておいた事業継続計画(BCP)に基づき1週間で事業を再開させた。
「次流嗅技(じりゅうきゅうぎ)」。同社が会社のスローガンに掲げている言葉だ。その場の環境を見極め、次の流れを読む意味だという。この言葉が、巨大地震から会社を救った。海岸から1キロ程離れた場所にあるオイルプラントナトリは、地震発生から約1時間後に大津波に襲われた。当日、工場にいた星野豊常務は、数分間続いた揺れの後、停電となったため非常用発電機でTV をつけ、10 メートルの津波がくるかもしれないという情報を得た。地震発生時にTV やラジオで情報収集を行うことは、同社のBCP の中で決められている初動対応の1つだ。

工場の周辺には高台がなく、なだらかな丘陵地帯に工業団地やニュータウンが広がる。星野氏は、同じ工場にいた武田洋一社長と相談し、即座に全従業員に対して、会社から3キロほど離れた場所にあるイオンモールの屋上まで逃げることを指示した。同社では、震度6弱程度の地震を想定してBCPを策定しており、10 メートルを超える津波が来ることは想定外だった。もちろん、3キロ先まで従業員を避難させることは、マニュアルにも載っていない。その状況下で対応できそうなぎりぎりの判断だった。津波は、イオンモール前を流れる増田川まで押し寄せたが従業員は全員無事だった。ただ、社員の中には家屋が流された人も何人かいた。
■BCPに基づき復旧計画を策定
同社の事業は、工場からの廃油や汚泥、廃プラスチックなどの廃棄物を回収し、再生重油や固形燃料などに再資源化して販売するというもの。食用廃油からディーゼル燃料をつくるBDF(バイオ・ディーゼル・フューエル)事業にも取り組んでいる。取引先は、廃棄物の収集元である自動車工場や複合機の生産工場のほか、再生した資源(燃料)の販売先であるセメント工場や製紙工場など大企業が多い。
BCP の策定は、こうした取引先への製品・サービスの安定供給と、自然災害リスクへの備えとして3年ほど前から準備を開始し、今年1月末に完成したばかりだった。被災時でも継続すべき中核事業には、廃油の精製、油水加工(工場廃水の中和処理)、収集運搬、顧客
対応を挙げ、それぞれ事業を行う上で必要となる設備や資材、情報、人材などをまとめ、数日〜最大30 日で事業を再開させる目標を立てていた(図表1)。
しかし、東日本大震災で発生した津波では、18基あった大型タンクは、ほぼすべてが流され、油水分離処理施設などの機械設備も修理に数カ月を要する状態になった。24 台あった運搬連絡車両は半数が津波に飲まれた。唯一の救いは、工場の2階に置いてあったコンピューター・サーバーが無事だったことだ。

工場は立ち入ることもできない状況だったため、同社では14 日から登記上の本社がある民家に本社機能を移し、協力会社との連絡、被災状況の具体的な調査などを開始。同時にBCP に基づく復旧計画を策定し本格的な事業再開に向け動き出した。
復旧方針は、①二次災害の防止、②社会的要請、③社員の生活の確保の3点。まず、最優先業務として、自社工場から津波により各地に流れ出たタンクを回収し、火災や環境汚染など二次災害を防止する必要があった。社会的要請としては、被災したガソリンスタンドや、陸に上がった船からの廃油を回収する業務が生じた。そして、事業を継続することで社員の生活を確保しなければならなかった。
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