失言を丹念に見てみると、いくつかの種類がある(イメージ:写真AC)

世間で追及される失言の実態

ここまで、嘘の構造に関して語り、前回は炎上にスポットをあてた。今回はその表裏一体でもある失言の側面から検討したい。

政治家や著名人のなかには失言を繰り返す人物も多く、メディアがこぞって集中攻撃をする事態を目の当たりにすることは少なくない。それでも、失言は繰り返される。しかし、その失言を一つ一つ丹念に見てみると、その構造にはいくつかの種類があり、それを以下に簡単に示してみる。

①物事の本質を突いた特定の人には痛い発言

②言わずもがなで皆が触れたがらないことの発言

③予定調和の空気を乱す斬新な意見の発言

④事態の厳しさを正確に伝えようとするがための比喩発言

⑤誤解や無知がゆえに発せられる発言

⑥つい本音が出てしまった発言

⑦苦し紛れの言い訳発言

⑧意図して誘導しようとして見透かされる発言

まだまだあるかもしれないが、まずはこのあたりで留めよう。こうやって客観的に記述すると冷静に見極められると感じそうだが、実社会でこれらが混在する状況で本当に見極められるだろうか。

大別すると①~④はポジティブで⑤~⑧はネガティブといってよいだろう。統計を取っているわけではないが、傾向として、このポジティブな発言の方が失言として糾弾される傾向が強いように思う。一方でネガティブな発言の方は失言とされず、納得や共感さえもたらす傾向にあることが、感覚的に理解いただけるのではないだろうか。

ポジティブな失言に対する糾弾は、痛いところを突かれたとき、既得権益を脅かす存在が現れたときの防御反応が攻撃性を帯びた側面も(イメージ:写真AC)

誤解を恐れずにいわせていただくと、このポジティブな発言を失言とする扱いはレッテル貼りであり、人として痛いところを突かれた時の防御反応や、自らの既得権益・安住の地を脅かす存在に対して攻撃性を帯びてしまった結果の現象にほかならないと感じる。このことは筆者の勝手な推測に過ぎないが、その推測が間違っていたとしても、本来この種のポジティブな発言は糾弾どころか推奨されるべきものであることは揺るがないだろう。

組織に属し、何らかの改革や改善手段を講じようとした経験があればおわかりだろうが、その改革が抜本的で本質的であればあるほど、強い抵抗勢力が生まれる。当事者であれば、この抵抗勢力とどうやって対峙し、御するかが重要戦術になるが、周囲にいる第三者から見た場合はどうなるだろう。

抵抗勢力の発する攻撃は、表向きは論理的で正義をかざしているように第三者からは見えることが多い。その攻撃に異を唱えた瞬間、次の攻撃のターゲットにされる可能性があるため、尻込みもするのだろう。つまり、集団いじめの構造に似ているのである。

物言わぬ第三者は、本質的な改革を目指す者にとっては、既得権益側の攻撃を容認する抵抗勢力となる(イメージ*写真AC)

これが閉鎖的な空間の話なら、第三者としてのスルーも許されるかもしれない。しかし、社会的に糾弾されている失言は、第三者のようでいて、実は当事者でもあるので厄介だ。判断ができず、第三者としてサイレントマジョリティ姿勢を貫くのは、実は沈黙の同意となり、既得権益側の攻撃を容認する行為になる。つまり物言わぬ第三者は、本質的な改革を目指す者にとっての抵抗勢力になっていることを自覚するべきだ。