憲兵隊本部(現東京・千代田区、国立国会図書館資料)

吉田ら親英派の検挙

昭和20年2月14日、宮廷へ参内して単独上奏した公爵前首相・近衛文麿は、天皇に対して戦争終結と軍部の粛清を訴えていた。この時に天皇に奉呈されたのが、世に「近衛上奏文」といわれるもので、近衛公が敗戦よりも共産革命を恐れていたことが明らかにされている。しかも、この上奏文は、既に陸軍省軍事資料部が大磯の吉田茂邸にスパイを放って、ひそかに上奏内容を盗写していた。だが、近衛公が天皇に戦争終結を上奏したからといって、憲兵がこれを取締ることはできない。しかし、この内容の一部が利用され、巷間反戦的言動となって流布されたため、憲兵は動かざるを得なくなる。

陸軍省からの要請によって、憲兵が注目した人物が、吉田茂、池田成彬(しげあき)、原田熊男、樺山愛輔、岩淵辰雄、殖田(しょくだ)俊吉らであった。これらの知識人はそれぞれ宮中、財界、法曹界、マスコミに連なる親英派といわれる一群である。このリベラルなグループが近衛公に近い関係であることは既に明らかにされていたので、4月15日早朝、憲兵隊は吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄らを検挙した。だが、吉田検挙の際、大磯の吉田邸に隠されてあるはずの近衛上奏案(吉田茂が筆写したもの)は発見されなかった。吉田の内妻こりんが素早く帯の間に隠し、後に焼却したといわれている。吉田茂は昭和20年4月から40日間憲兵隊によって監禁される。

吉田グループの検挙の理由は、近衛上奏文の内容の一部にせよ流布したことと、反軍言動があったが、もう一つは、軍の編成装備を漏らした軍機保護法違反である。犯罪容疑としてはものものしいが、単にこれだけのことである。だが、これが一般国民ならば大きな影響はないが、近衛公に連なる吉田親英派グループだけに大問題とされたのである(事実、この検挙事件をほとんどの国民は知らなかった)。

一方、憲兵隊の取調べを受けた吉田茂は、当初頑強に容疑事実を否認したが、最後はあっさりと容疑事実を認め、5月3日に東部軍事法会議に送られた。憲兵隊留置の間、憲兵は老齢の外交官・吉田茂を丁重に取扱い差し入れなどは自由に許可した。

留置所の処遇と戦後

この事件は、敗戦後、華々しく政界に登場した吉田茂が、戦後の日本再建にワンマン老首相として活躍したため、民衆の軍への反発とともに、憲兵隊の暴挙として誇大に記され語り伝えられた節がある。

吉田茂に言わせると、憲兵隊の取扱いには大分参ったようである。吉田茂が憲兵隊に検挙された当初、留置場には、米空軍搭乗員の負傷者(捕虜)が数人入っていた。留置場が一杯でやむをえ得なかったのだろうが、この負傷兵と一緒に留置された吉田茂はさすがに居心地が悪かったという。もっとも2~3日間のことであったが、この後の憲兵隊の扱いも悪くなかったとされる。

同年5月3日、吉田は代々木の陸軍刑務所に収監されたが、刑務所長田代敏雄大尉が、それとなく吉田を優遇した、とされる。しかも、5月25日の東京空襲で刑務所が焼失した時、脱出しようとした米空軍捕虜数人が殺害されたため、戦後、田代所長はその責を問われて、戦犯として処刑されるところであった。それをGHQと交渉して助けたのが吉田茂である。田代所長は死一等を減じられて無期刑となり、釈放後は僧侶となって、太平洋戦争時に戦死または刑死した人々の冥福を祈った。