東京オリンピックと武蔵水路開削

東京オリンピック大会が目前の昭和39年10月10日に迫っている。政府は「戦災から見事に復興し、世界に誇れる文化都市<日本の顔>東京」をスローガンに掲げ、首都高速道路や新幹線など首都圏のインフラ大改造を進めていた。国務大臣河野一郎(オリンピック特命担当)を中心に「世紀の祭典」成功に向けて「1日も早く利根川から水を引く水路の掘削を!」と、連日のように政府関係省庁による緊急対策会議が開かれた。「世界に誇れる大会実現!」を河野大臣は指示した。しかし関係省庁の対立をはじめ東京都のために大地を水路で分断される埼玉県の根強い反対があった。

昭和37年5月、国内の限られた水資源を公平な立場で広域的に開発かつ有効利用する組織として、水資源開発公団(現水資源機構)が発足した。政府は、公団の最初の事業として、「大渇水の東京を救う」ため、水量豊かな利根川の水を広域的に開発する利根導水路事業の開始を決定した。工事を急ぐ国務大臣河野の決断だった。

関東平野の三大河川は利根川・荒川・多摩川である。従来、東京都は主として多摩川に水源を依存してきた。だが集水域が狭いため供給量が少なく、荒川も水量の変化が激しいことから、人口の急激な増加に伴う多量の取水には不十分な状況となっていた。

そこで利根川最上流部、群馬県内のダム群で生み出された大量の水を東京都・埼玉県へ供給する総合的な水資源開発の一環として昭和38年(1963)に着手されたのが、利根導水路計画である。事業の中核的事業が埼玉県を2分する武蔵水路(むさしすいろ)の開削であった。

同導水路事業は、東京都と埼玉県に都市用水を供給するだけではない。利根川中流部の約2万9000ヘクタールの農地(埼玉・群馬両県)にかんがい用水を安定的に供給し、さらにドブ川となった隅田川の浄化にも役立てようとするビッグプロジェクトであった。河野大臣の厳命もあり武蔵水路開削は難色を示す埼玉県を押し切って突貫工事に入った。