武蔵水路、オリンピックへ突貫工事

東京大渇水を救済する切り札・武蔵水路の開削事業は、まず秋ヶ瀬取水堰の建設工事から始まった。同建設工事は昭和38年3月からから始まり、東京都の緊急援助要請を受けて、早期完成を目指す昼夜兼行の突貫工事で進められた。河野大臣の<鶴の一声>で、通水式は昭和39年8月25日と決まり、オリンピックを目標に可能な限り工期を短縮して渇水の非常事態に対応するため、水資源開発公団と施工業者が総力戦の体制を組んだ結果、無事開通にこぎつけた。

武蔵水路の起工式は昭和39年2月だった。東京都の水飢饉の一番激しい時期であり、一刻も早く利根川の水を東京へ導く必要があり、用地買収は約1カ月余りという異例の早さだった。工事は8工区に分けての24時間体制である。底なしの軟弱地盤と闘い、農業用水路や河川、鉄道などが網の目のように交差する地点では、サイホンの原理を応用して河川や従来の施設などをくぐり抜ける難工事が続いた。昭和40年(1965)3月、見沼代用水の用水路を使いながら暫定通水を開始した。だが実際の工事完了は42年(1967)3月1日だった。オリンピック大会には間に合わず、同大会から2年後だった。

利根導水路事業と相まって、利根川上流には矢木沢ダムや下久保ダムなどの大きなダムが計画・建設された。その後、奈良俣ダムなどが加わり、首都圏約3000万人の水を提供する<一大水源池>となった。