埼玉県鴻巣市で開催された武蔵水路通水式典(1965年3月1日、提供:水資源機構)

首都圏を襲った空前の大渇水

昭和39年(1964)、アジアで初めて開催された「世紀の祭典」東京オリンピック大会が、長引く異常気象のため中止のやむなきに至る危機性をはらんでいた史実をご存知だろうか。この異常気象とは何か? 大渇水である。「昭和の一大水飢饉」である。以下、拙書「砂漠に川ながる、東京大渇水を救った500日」(ダイヤモンド社)や水資源機構資料を参考にする。

東京都を中心とする首都圏では、戦後それまでに例をみないほど人口が急増した。東京一極集中が進んだのである。高度経済成長政策を背景として、生活水準の向上、先端産業の発達、さらには都市のスプロール化、乱開発などに伴い、水道水の使用量は急増し、東京都心での水不足が深刻化した。その一方で河川の水質汚濁もその極に達していた。

水不足に追い打ちをかけたのが干天続きの異常気象だった。昭和35(1960)~37年(1962)にかけて、平均降雨量は平年の半分以下と極端に少なく、都民の水源地である小河内(おごうち)ダムや村山・山口貯水池は干上がって湖底に亀裂が走った。大渇水に見舞われた東京都内は砂埃が舞い「東京砂漠」とマスコミに報じられる事態となった。

東京都は、昭和36年(1961)10月から20%の制限給水を開始、39年7月にはさらに35%に強化した。35%の制限給水は、夜間22~翌朝5時、昼間10~16時は蛇口をひねっても水が出ないという厳しさで、一般家庭はもとより、工業用水を大量に必要とする製造業界にも大きな影響を及ぼした。しかしながら雨は降らない。

昭和39年には日本初の東京オリンピック大会開催の記念すべき国際的イベントが待っている。だが一向に慈雨に恵まれず、8月の45%の制限給水時には自衛隊が応援に出動し、2万5000人の隊員が16日間にわたり配水車を走らせて約7000トンを給水した。制限給水は一時、最大50%まで強化され、通算1259日(約3年半)にも及んで、都庁には都民から苦情が殺到した。マスコミでも連日大きく報道され、都政の無策が批判された。節水の呼びかけやプールの使用禁止、雨乞いや人工降雨実験など…。水不足は人々の暮らしに甚大な影響を及ぼしたが、下水道普及の遅れから、水質の汚濁が進み、多くの河川が生活雑排水や工場排水の流入で、悪臭を放つドブ川となった。