利根川東遷の真の狙いは

利根川東遷については、多くの論文や文献が、主に明治期以降に刊行されている。この大規模事業は複雑であり矛盾もあって分かりにくい。始めに、あらましを述べておこう。

この大河川事業の主人公は徳川家康で、彼が天正18年(1590)江戸に入府し、関東一円を手中におさめたときから乱流する利根川の流域を変えて、常陸川に導き、銚子で鹿島灘に落とす今日の利根川の構想を描き、背後に伊奈備前守忠次があってその実現に踏み出すという筋書きになっている。

この大事業は(1)文禄3年(1594)会(あい)の川の川の吞口(分派点)を閉め切って、東に流れる派川、すなわち今の利根川を本流とし、従来より無理な河道に押し込んだというところから出発する。以後、流路を東へ東へと追いやり、(2)承応3年(1654)最後の難関赤堀川を掘って利根川と常陸川(広川)を結び付け、60年の歳月をかけて、家康の構想を実現し、銚子を経て鹿島灘に落としたという筋書きである。会の川の閉め切りを第1回事業とし、第2回は新川通開削、第3回は五霞村(現茨城県五霞町)周辺の工事、特に江戸川、権現堂川と逆川の開削、第4回は赤堀川開削の順で工事は進むが、この一篇の「利根川の瀬替・東遷物語」が「創作」されるのは明治年代のことである。

小出氏によれば、江戸幕府には上利根川の洪水防御の目的で利根川を東遷する考えは全くなく、利根川の「幹線」を銚子に落とす構想など、新川通開削当初はもとより、江戸時代を通じて持っていなかった。その証拠に、赤堀川の通水後、幅10間(約18メートル)のまま拡大しようとしなかった。その後、明治4年(1871)に拡げている陸地測量部で明治16年(1883)に行った測量の結果は、川妻地先の赤堀川流頭で幅わずかに80~100メートルに過ぎない。この断面では利根川の少しばかりの出水も呑むことは難しいだろう。拡幅が進むのはその後で、敗戦直後の日本に大災害をもたらした昭和22年(1947)のカスリーン台風後に大幅に拡大され、現在では1キロはあるであろう。