江戸時代以前は利根川が東京湾に注いでいた(出典:Wikipedia)

江戸初期の河川水運開発

江戸時代初期に行われた河川水運(舟運)の開発を目的とした最も大規模な河川事業は、東北日本では利根川と北上川に、西南日本では淀川に見ることができる。

利根川の場合、江戸幕府の下で、元和7年(1621)~承応3年(1654)にかけて30年以上の歳月を要し、西関東の利根川と東関東の鬼怒川、常陸川(広川)を結び付け、結節点に江戸川を開削した。それまで西関東と東関東は別々の独立した流域であったが、この開発で広大な関東平野は、上利根川と中下利根川として連なり、結節点(分派点)の関宿(現千葉県野田市)から南に江戸川を通じて、幕府の手中に治められることとなった。さらに鬼怒川、烏川から陸路を経て、上信越と奥州南部を江戸の経済圏に繰り込むことに成功し、利根川と江戸川は、関東平野とその周辺を含む広大な地域を支配下に抑え、それを結びつける大動脈となった。そして江戸川は江戸時代中期・享保時代には新利根川と呼ばれていた。

周知のように、利根川は初代関東郡代の伊奈半十郎忠治(初代関東郡代伊奈備前守忠次の次男)を中心に、開発工事を進めた。広大な平野を流れる大河中下流部で、瀬替(せがえ)と呼ばれる河川の付替えを主とする大規模な土木事業で、江戸前期におけるもっとも異色の河川開発であった。その目的については、後世、特に明治以降主として歴史家が考察したものが主流であり、地域の農業開発を進めるため、また治水を目的にして行われた河川工事であるとする考えが広く信じられている。だが果たしてそうだろうか。

埼玉平野では、この事業の完成ではじめて開発された新田はほとんど見当たらない。かえって不利な条件が現れ、北関東の渡良瀬川中下流部の邑楽(おうら)郡や下都賀郡一帯のように明治期から大正期にかけて水害常襲地となり、開発不可能の地域も出て来た。さらに江戸を洪水氾濫から守るため、江戸湾(現東京湾)に注いでいた利根川の流路を変え、銚子に落としたという説は、工事の内容を検討すると、必ずしも正しいとは言い切れない。その後の埼玉平野での利根川決壊による大洪水の氾濫が何よりもこの説を否定している。