写真を拡大 昭和東南海地震の震度分布(出典:Wikipedia)

立て続けに東海で地震

昭和19年(1944)12月7日の昭和東南海地震と翌20年(1945)1月の三河地震は、軍部によって報道管制が敷かれ完全に隠ぺいされた。当時、日本は太平洋戦争の最中であり、しかも敗色が濃厚となっていた。軍部は軍需工場の被害状況などの情報が連合国に漏れることを恐れ、情報を統制した。新聞・ラジオ報道を禁じたのである。昭和東南海地震は翌8日がマレー半島侵略3周年(大詔奉戴日)ということもあり、戦意高揚に繋がる報道以外の情報はより一層統制された(12月8日の各紙1面トップは、いずれも昭和天皇の大きな肖像写真および戦意高揚の文章で占められている)。言論・報道の自由などどこにもなかった。

地震に関する情報は、3面の最下部のほうにわずか数行触れただけで、具体的な被害状況は一切伝えられなかった。被害を受けた中部地方各地の住民や、学徒動員され愛知県半田市の中島飛行機の工場で働いていた学徒らには、被害について絶対に口外しないように、とする戦時統制に基づく通達によるかん口令が行政側からまわった。そのために、周辺や他の地域からの救援活動もなく、被災地は孤立無援に陥った。
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ただ、世界各国の震度計により観測・記録されたため、日本列島中央部に地震が起きたことは把握されていた。翌日のアメリカの主要紙は日本で大地震が発生したことや軍事に及ぼす影響のことを大きく伝えている。「ニューヨーク・タイムズ」は「地球が6時間にわたって揺れ、世界中の観測所が『破壊的』と表現した」と、大々的に報じた。「日本の中央部で大地震」といった見出しで、地域まで特定して見出しをつけたものもあった。

この地震の状況を心理戦として「ドラゴーンキャンペーン作戦」と名づけ、宣伝ビラ投下作戦をアメリカ軍が実行したとされる。B29から投下された宣伝ビラには毛筆で「地震の次は何をお見舞いしましょうか」と書かれていた、という。また、津波被害の資料となるアメリカ軍機による3日後に撮影した航空偵察写真が残されており、連合国側は状況を全て把握し、特に軍需工場などの戦略拠点の被害状況を注視した。地震から昭和東南海地震6日後の12月13日夜には、津波の被害にもさらされ惨事となっている名古屋地域の航空機工場を中心とする一帯に、アメリカ軍は大規模な空襲を行っている。