名門・灘中の創設者

昭和2年(1927)10月24日、神戸の旧制灘中学(現・名門灘中・高等学校)は、灘の酒造家両嘉納家や富豪山邑(やまむら)家の篤志を受けて開校することになった。この間、東京高等師範学校長兼講道館館長の嘉納治五郎は生誕地灘での私立中学創設にむけて資金確保や教職員の人材選択に先導的役割を果たし、開校後は顧問に迎えられた。初代校長には嘉納の愛弟子をあてた。

同校の校是には柔道の精神「精力善用」「自他共栄」が採用され、翌3年(1928)4月に開校の運びとなった。灘校教育の基礎を確立したのは、初代校長に招かれた眞田範衞であった。真田は東京高等師範学校の数物化学科を卒業後各地で教職を歴任していた。校長に抜擢された時は、まだ30歳代の若さだった。真田は同校の「教育の方針」を定めるとともに、自ら校歌・生徒歌も作詞した。嘉納は開校時の第1回入学式に列席し、柔道を援用した攻防式国民体育を指導した。柔道は同校の校技である。
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講道館師範嘉納治五郎は、明治維新と共に途絶えた孔子祭典を明治40年(1907)に復活する。儒学の祖である孔子を祀る慣習は、古代宮中の大学寮に孔子廟が設けられて以来、歴代政権が儒学を国の教学としたことにより近世まで続き、江戸幕府は湯島に孔子廟(聖堂)を建てて学問所としたが、幕府崩壊と共に祭典も中断された。嘉納は哲学者で知友の井上哲次郎、文部官僚伊沢修二、実業家渋沢栄一らとはかり、湯島聖堂において毎年4月第4日曜日に孔子祭典を催す委員会を組織し、委員長として祭典運営に尽力した。嘉納は、近代という新しい時代の人間関係のあり方(礼節)を、なおも中国の哲学・儒教に求めた。嘉納の発想は当時の軍国主義や国粋主義とは縁もゆかりもないことを強調しておきたい。(ちなみに松戸市の八柱霊園の嘉納家墓地は神道様式である)。