嘉納治五郎像(講道館前)

サンテル事件で弟子破門

嘉納が愛弟子を破門にするというエピソードが残されている。柔道とプロレスの対立(嘉納門弟<破門>事件)を紹介しよう。<サンテル事件>である。

事件は大正10年(1921)に起きた。嘉納の「柔道とは心身の力を最も有効に使用する道である」という定義は、やがて<精力最善活用>へと発展していくが、柔道界にはこの定義に対して批判する者も出て来た。その一人が嘉納の愛弟子であった岡部平太(1891~1966)である。福岡師範を卒業した岡部は、教員生活の後、大正2年(1913)4月に東京高等師範学校体育専修科に入学した。5月には嘉納の勧めで講道館に入門し、春の講道館の紅白試合では5人抜きをして即日2段に推薦された。その後学生唯一の4段という破格の強さを発揮した。

大正6年(1917)、高等師範研究科(今日の大学院)に進んでこれを修了し、嘉納の勧めでアメリカのシカゴ大学とペンシルベニア大学に留学して体育全般と体育原理を学び、最後の半年をハーバード大学で世界体育史を修めた。在米中、陸上競技やレスリング、硬式テニスの選手としても活躍した。彼は頭脳明晰であっただけでなく各種のスポーツにも秀でていた。

大正9年(1920)、高いレベルの大学教育を受けて帰国した岡部は、恩師嘉納邸の一室に住み、旧帝国ホテル内に在った大日本体育協会へ通った。それは、母校東京高等師範の体育講師に迎えられるまでの暫定措置であった。だが嘉納との決裂の日が来る。

翌年、アメリカからプロレスラー、アド・サンテルが来日し講道館に挑戦状を突きつけた。嘉納はサンテルの対戦に応じるという返事をしてしまった。これを聞いた岡部は嘉納を止めさせるため、嘉納と長時間に及ぶ激論を闘わした。彼は、アメリカ留学中にプロレスラーと練習して実態を知っており、柔道が彼らプロ(商業主義)に利用されることに反対したのである。

結論が出ないまま、岡部夫妻は嘉納邸を飛び出してしまった。嘉納も一度は岡部の反対論に怒った。が、熟慮の末岡部の忠告を受け入れて、もしサンテルと試合をすれば破門にすると館員に伝えた。しかしながら、早大の庄司彦男3段が大正10年3月6日、靖国神社館内の相撲場でサンテルと試合に臨み、途中肩を攻められて危なかったが、引き分けに終わった。岡部は恩師嘉納を怒らせた結果、約束されていた高等師範の椅子を諦め、また柔道関係に職を求めることも断念せざるを得なくなる。岡部は講道館の「破門者」となった(嘉納は弟子を破門することを嫌ったのだが)。その後、岡部は日本のスポーツ指導者として活躍し、アメリカンフットボールなどの紹介をし大きな足跡を残した。
                        ◇
<余禄>

(1)嘉納は明治36年(1903)8月、須磨子夫人、嘉納塾生4人などを同伴して富士山の夏山登山に挑戦している。時に44歳。30歳を過ぎた須磨子夫人はなかなかの健脚で、体験記を「富士の道芝」(私家版)として刊行している。古典文学への教養を感じさせる流麗な雅文の中に和歌がうたわれている。登頂成功時の歓喜をうたった和歌を紹介しよう。
「女とて 言ひなおとしそ 富士が嶺 剣のみねも 登りはてにき」
同書には「女子登山者への注意」も末尾に記されている。

(2)嘉納は明治44年(1911)手賀沼湖畔の千葉県我孫子町南作(当時)の通称天神山に別荘(「臨湖閣」)を建設し、翌年広大な農園(嘉納後楽農園=現我孫子市白山)を購入した。別荘から見下ろす手賀沼を「安美湖(あびこ)と名付けている。大正3年(1914)年には西側隣地(「三樹荘」)に甥の民藝運動提唱者で宗教哲学者の柳宗悦・兼子夫妻を呼んだ。柳は知友の文学者志賀直哉・武者小路実篤らを我孫子に誘い、「白樺派」の文人たちの活躍の場となった。

嘉納は群馬県長野原町の温泉街近くにも別荘を建てた。現在の八ッ場(やんば)ダム建設現場の中の一角である。今日、いずれの水辺の別荘も残されていない。我孫子市では近く嘉納の立像が旧別荘地に建立される予定と聞く。

参考文献:「嘉納治五郎」(講道館)、「日本教育史」(山本正身)、「気概と行動の教育者 嘉納治五郎」(筑波大学出版会)、講道館及び筑波大学附属図書館資料。

(了)