8年間の任期を通じて、ジュリアーニは犯罪取り締まりと都市再開発の課題に積極果敢に取り組んだ。情け容赦なく説明責任を求める彼のやり方は機能した。彼は、街路をきれいに一掃しただけでなく、ニューヨーク市での生活の質を改善したことが高く評価されている。

2001年秋、ジュリアーニの2期目が終わろうとしていた時、ニューヨーク市政府の巨大なマシンは、ほとんど自動操縦されていた。9月のある火曜日の爽やかな秋の日、太陽が昇ると彼のほとんど上級副官たちは次の職探しに忙しかったが、その日の午前中が終わる前にすべてが変わってしまった。

2011年9月11日にOEMは新しい長官を迎えた。ハウアーは前年に去り、リッチー・シーラーが引き継いだ。シーラーは、FDNYの通信指令部員として職歴が始まり、出世街道を歩んできた。彼はOEMのトップの地位を引き継いだ後、70人以上のスタッフを擁する組織に育て上げた。

OEMは新しい本部も持った。2年前にOEM職員は、最先端の災害対策センターと共に、7ワールドトレードセンターの23階に引っ越したのである。ワールドトレードセンターのノースタワーの通り向かいである。ほぼ1400フィート(426メートル)あり、ノースタワーは世界で最も高いビルであった。

9月11日午前8時46分、5人のハイジャッカーがアメリカン航空11便を乗っ取り、ノースタワーの北面に衝突させた。1時間40分間燃えた後、ノースタワーは倒壊した。とてつもない量の鉄鋼とコンクリートの破片が7ワールドドレードセンターに降り注いで外壁を貫き、少なくとも十の階で火災を起こした。

その時までに、ほとんどのOEM職員は建物から退出していた。彼らは通りに出て、FDNYの指令所の対応活動を支援し、装備を移動させ設置していた。全ての人がタワー倒壊による埃と瓦礫の雪崩に呑み込まれた。何人かは、命からがら逃げた。

1時間後、建物は巨大なトーチのように燃えたので、FDNYはそれを救おうとする最後の試みを断念した。火災からの熱が鉄骨の床の桁を伸ばし、梁が歪んで構造柱から外れた。

午後遅く東塔屋が崩れ始めた。残りの部分も崩れ、7ワールドトレードセンターは、鉄骨の柱を赤熱した槍のように地面に強く投げつけながら、午後5時21分に完全に倒壊した。

指令所はOEMの移動式指令バスに移され、その長い一日をずっと働き続けた。災害対策本部を失ったことは、OEMと市の頭脳が無くなったことを意味していた。その午後遅く、グラマシー近くの20丁目東にある警察学校に臨時の災害対策本部を設置した。そこから、傷ついたOEMはその日の残りと夜を結束して過ごした。

ニューヨークの多くの人たちは、水曜日の朝に太陽が再び上るのだろうかと思った。太陽が実際に昇ると、OEMと市政府、ボランティア機関、民間パートナーが警察学校の2階の図書室の設置した間に合わせの災害対策本部(EOC)に集合した。港湾局は、ビル倒壊時に1万5000人がいたと報告した。あまりに多くの人が失われ、かなり多数の人がまだ生存しているかもしない相矛盾するイメージが、切迫した苦悶の感覚を生じさせた。この部屋にいる人はだれも、一人の命でさえ助けるためにしないことはない。彼らは、やり方が分かっていることだけやることになった。彼は仕事をやるために出ていった。

OEM副長官ヘンリー・ジャクソンは、彼のEOCの代替場所を探しに出かけたが、すぐに53丁目西のニューヨーク旅客船ターミナルに決めた。1935年に豪華客船のために建築され、埠頭92は、1100フィート(335メートル)ハドソン川に突き出していた。ジャクソンは、この場所をよく知っていた。このテロ攻撃の翌日の9月12日に、OEMのバイオテロ演習(トライポッド作戦と呼称されていた)を主催する予定ことになっていた。理想的ではないがスペースは十分に大きく、ワールドドレードセンター地区には容易にアクセスでき、しかも空いている。

歴史上のもっともすばらしいテクノロジーの展開の一つとして、ジャクソンと彼のチームは、このスペースを72時間もかけないでフルに稼働できる災害対策本部に転換したのである。

9月14日広さ7万5000スクエアフィート(7000平方メートル)以上、天井高26フィート(8メートル)の巨大な空間が息を吹き返した。十数の連邦、市、州、各自治体、総勢150もの機関が、この危機に対処するために集合した。ニューヨークの最初のグレート・マシンの誕生である。OEMは、現場対応の戦術的なチームから、どのような種類、規模にも対処できるエリートの専門家集団に変貌した。

(続く)

翻訳:岡部紳一
この連載について http://www.risktaisaku.com/articles/-/15300