被災者の避難生活が続いた石ノ森萬画館の入口。写真は再オープン後(提供:高崎氏)

救出活動と館内での避難生活

あたり一面が川(海?)に変わり、自分一人が生き延びてしまっている現実を実感するにつれて、30分前に避難させた萬画館スタッフの顔が脳裏によぎる。恐らくは渋滞に巻き込まれてしまい、車ごと津波で流されただろうと思っていた。この状況を目の前にして、市内のスタッフの生存はまずないだろうと感じ、自宅へ避難するよう指示を出した自分は目の前の津波のことよりも、自分の指示によりスタッフを危険な目にあわせてしまったという罪悪感に苛まれていた。

この状況にありながら、頭は冴えていて、色々なことを考えてあれこれと動いていた。自分自身もいつ萬画館が流されるかも分からないとの思いから、いざという時の命綱にと、萬画館の出窓にロープ代りになる延長コードを巻き付けて、最悪萬画館が流された時の対処法をあれこれ考えていた。

「萬画館は造船技術で造られた建物。だから流されることはまずないだろう。仮に流されたとしても水面に浮かぶから大丈夫!」と心の中で他愛のないことを考え、自分に納得させながら、不安を打ち消そうと必死だった。

そうこうしているうちに、目の前の川面は瓦礫で埋め尽くされていた。津波襲来から20分ぐらいが過ぎていたと思うが、その頃にはハリストス正教会前ぐらいまで流れ着いた瓦礫で川は埋め尽くされていた。

そんな絶望的な状況下においても、なんとか奇跡的に生き延びた人達がいた。西内海橋(市街地方面)と中瀬の間(横田釣具店)付近にかたまって避難していた約20人程の人達は身を寄せ合って流されるのを必死にこらえていた。

第2波(第3波?)の津波が落ち着き、水位が下がり始めた頃、萬画館の3階からその人達と目があった。「萬画館の中は大丈夫かあ」と叫ぶような声が聞えたので「3階は大丈夫だから、水が引いたら上がって来てください」と大声で叫んだ。その声が届いたらしく、橋のたもとにいた人達は、水と泥と瓦礫を掻き分けるようにして萬画館に向かって歩き出した。

避難してきた人は皆一様に放心状態。精神的にも限界を迎え、体力も使い切り、疲れ果ててしまっている皆を図書コーナーに誘導し、ずぶぬれになった体を拭ってもらうために、有料ゾーンで展示品を飾るために使用していた布製品をかき集め、それで体を拭いてもらった。

それ以外にも被災者はどんどん増えて行く。内海橋付近以外でも生存している人はみんな命からがら萬画館内へ逃げ込んできた。瓦礫にしがみついて流れてきたために低体温症になり、体が動かなくなっている人も何人かいた。そういった人にはずぶ濡れになった服を脱がしてあげて体を拭き、自分のトレーナーを着せて暖を取り徐々に体を温めてもらった。

その日は最終的に40人と犬1匹が萬画館に避難された。小さい子どもから認知症を患うお年寄りや持病も持つ方、流された勢いで骨折した方など、本当にいろんな方と寝食を共にすることになった。

萬画館の3階には「ブルーゾーン」という喫茶店があり、比較的食料のストックもあり、食料について困ることはなかった。停電のため電気はつかなかったが、運よく毎年7月に隣の中瀬公園で開催している「石巻マンガ灯ろう祭り」の準備のために、大量のろうそくを準備していたため、そのろうそくを使い明かりを灯すことが出来た。

ラジオについては常備していなかった。停電したことに加えて、津波の第一波が来た段階で携帯電話の通話も不可能になり、携帯電話で受信できたラジオも程なく電池が切れて聞けなくなったことで、夜を待たずに萬画館は外部から完全に孤立してしまった。

夜になり、萬画館から見えるのは湊小学校付近から立ち上がる煙と日和山を越えて南浜町側を包む火柱とモクモクと立ち上る煙。それに伴って流れて来る火が付いた瓦礫…。

知らないうちに降っていた雪もやみ、ふと空を見上げると、皮肉にも満天の星空が広がっていた。遠くから頻繁に聞える爆発音と日和山の奥に見える赤く燃える空…。その対照的な光景が妙に気持ち悪かったのが印象的だった。

その横では北上川は終日夜中になっても川の水位が上下を繰り返し、その都度ザザーという川から街中へ流れ込む音が響いていて、加えて余震も多く、ほとんどの人が眠れない夜を過ごした。

避難された方はみな3階から外を見渡していた。見慣れた景色の面影はなく、廃墟と化した周りの状況に絶句し、泣きだす方もいた…。

大森氏は「これ以上は語れない」と涙声で口を閉じた。幸いにも犠牲になった来場者やスタッフはいなかった。同館の再オープンは被災から約1年半後の2012年11月17日だった(取材に快く応じてくださった大森氏に感謝する)。

(つづく)