株式会社深松組代表取締役社長の深松努氏

東日本大震災から6年と7カ月ほど経って、仙台はだいぶ復興が進んでいます。人に関することで言えば、全員が仮設住宅から出て、普通の生活を歩むところまできました。ただ、宮城県全体でいうと、気仙沼や石巻、南三陸の辺りはまだまだで、あと5年ほどかかります。皆さんから、物心両面でいろんな援助をいただいて今日に至っていると常に感謝しています。

当時、私は仙台建設業協会の土木担当副会長でした。市役所や県庁がある青葉区の隊長であり、市全体の隊長だったという立場からお話しをさせていただきます。

仙台市の仙台東部道路より海側にあった家は、津波で根こそぎ持っていかれ、残ったのは基礎部分だけでした。一方、内陸側は、仙台東部道路が盛土構造だったことから防波堤の役目を果たし、命を救ってくれました。もしこれがなかったら、仙台は万人単位で亡くなっていたことでしょう。津波が来るなんて誰も思っていなかったのです。仙台に津波が来たのは1時間後で、逃げていれば全員が助かったでしょう。すごく悔しいことです。

当然、重機も全て使用不可能になりました。海水に浸かったら、乾かしても漏電して動きません。重機は東北全体で1500台が廃棄されました。車は14万5000台が廃車です。

「仙台方式」でがれきの撤去

仙台建設協会では、仙台市、宮城県と協定を結んでおり、震度6以上の地震が発生したら自動的に集まって発進します。がれき撤去作業では、9つの部隊(「人命隊」「濡れごみ隊」「道路隊」「車両隊」「がれき隊」「解体隊」「農地隊」「山ごみ隊」「搬入場隊」)を作りました。「人命隊」は、警察消防自衛隊と一緒になって人命を捜索する部隊ですが、皆、心にダメージを負いました。目に見える復興はだいぶ終わりましたが、心の復興は全く終わっていません。今、宮城県の診療内科には、警察・消防・自衛隊、我々、そして学校の先生が多く通っています。学校の先生は、避難所の運営という大変な役目に当たりました。

仙台のがれき撤去作業は「仙台方式」と名付けられていますが、現場である程度の粗分類を行い、さらに19品目に分けて86%をリサイクルしました。燃やして埋めたのは14%でした。12月には目に見えるがれきを撤去し、農地は3月までかかりましたが、延べ43万人、ダンプ30万台を投入し、震災発生から約1年でがれき処理を終えることができました。

24時間体制、一週間かけて堤防づくり

震災の教訓ですが、旧北上町という人口3000人の町では、414人が亡くなりました。建設業者が遺体を安置所に集め、24時間体制で一週間かけて堤防を作りました。彼ら自身も親族が行方不明でしたが、救援の手が届かない中で、やらざるを得なかった。2週間経つと遺体が腐ってきますが、葬儀屋さんは来られず、棺桶もない。燃やす燃料もない。コンパネで414体の棺桶を作って、5km離れた山まで持って行き、1.5m掘って土葬しました。

田舎は全部そうなります。そこにいる人は、自助・共助で、自分たちで生き延びるしかない。警察・消防・自衛隊の人たちが助けられる人数は限られますから、救助がくるまで、何としても自分たちで生き延びるしかないのです。
企業の皆さんは、東京でBCPの定期訓練をやってください。やってみると、うまくいかないことが出てきますから、それをブラッシュアップしていけばいいと思います。

一般の人に伝えたいことは、家族分の食料を何でもいいので1週間分、あとは水が一番です。それぐらいは持っていてください。車のガソリンは4分の3まで減ったら絶対満タンにする。いつ何が起きてもいいように。東京では、緊急車両以外は絶対に手に入らなくなります。それから、家族の待ち合わせ場所。

「もし何かあったら、ここで待っていて」と子ども達と話し合っておいてください。川や海が近いところは、できるだけ高いところ、3階以上のところで待っているように言ってください。これが教訓です。

皆さんがそれぞれの地区で、それぞれの地域を守れば、この日本は必ず復興できます。

(了)