シアトルでの苦労

青山がカナダとの国境を越えてたどりついたシアトルは、アメリカ西海岸の木材輸出の貿易港である。シアトルは、サンフランシスコと並んで東南アジアからの移民や出稼ぎ労働者を受け入れる窓口でもあった。日系人の出稼ぎ労働者の群れもそこにはあった。英会話のできない日本からの移民や出稼ぎ労働者を港で待ち構えていたのは、日本人旅館の客引きや日本人の運送屋、そして職業を斡旋する労働請負人たちであった。シアトルには秋風が立っていた。肌寒さが、孤独な異国人である青山にひときわ旅愁をつのらせた。経費に限りのある青山は、日系人経営の古ぼけたホテルに投宿した。

青山はホテルでチェックインを済ませると、直ちにニューヨークのコロンビア大学教授ウィリアム・H・バア宛に手紙を書いた。バア教授からの返信は、かなり時間を経た後、広大なアメリカ大陸を東から西に渡って青山の手元に届いた。

「早いうちに君に会い相談に乗りたいが、パナマ運河建設問題は、目下アメリカ・コロンビア両政府間の交渉が極めて微妙な段階に入っている。君が現地に入る状況は残念ながらまだ整っていない。しばらくシアトルに滞在して私の返事を待って欲しい。近い将来、必ずパナマの現地に入れることと信じている」。

青山は翌年春までの半年余りの間、シアトル近郊の町で生活費やパナマ行きの旅費を捻出するため、住み込みでアルバイトを続けた。帝大卒業の工学士が皿洗いや雑役も厭わず行い、夜間は移民を対象とした夜学で英会話の勉強をした。(青山著「ぱなま運河の話」)。このシアトル近郊の町は、シアトルの南に接したタコマではないかと思われる。タコマは出稼ぎで渡米した日系移民らが日本人コミュニティを形作っていた。

青山が渡米する前年の明治35年(1902)4月にアメリカ連邦議会が中国人移民禁止法(無期限)を成立させていることに注目しておきたい。アメリカ国内、中でもカリフォルニア州での東南アジア人に対する排斥運動は、すでにそのうねりを見せ始めていた。日本人も排斥運動の標的にされた。青山は、異国にあって、最終目的地のパナマ行きが実現するかどうか不安だったに違いない。しかし日本の大学を卒業したばかりの青山には、自らの運命を切り開く道はなかった。耐えて待つしかなかった。

パナマ情勢

パナマという地名は現地住民インディオの言葉「多くの魚」またはパナマ原産の樹木の名前に由来する。アメリカ・メキシコ戦争(1846~48)の結果カリフォルニアなどを取得したアメリカは、鉄道建設でパナマ進出の第一歩を確保していた。当時のアメリカは大陸横断鉄道の完成に向けて努力が傾注されていたが、1848年に金鉱がカリフォルニアで発見され、一攫千金を夢みる男どもが陸続として西海岸に向かった。パナマ地峡の交通量は飛躍的に増大した。西部で起こったゴールドラッシュへの移動需要を満たすためにパナマ・ルートが注目された。

ニューヨークの金融業者がパナマ鉄道会社の設立を計画し、当時パナマを領地としていたコロンビア政府から約80kmの地峡横断のための鉄道を建設する独占権を取得した。熱帯雨林の一部を切り開いて敢行された現地調査の結果、鉄道建設に乗り出すことになった。嘉永3年(1850)に始まった敷設工事は5年後に完成した。全長48マイル(77km)のパナマ鉄道には8000万ドルの資金と9000人もの労働者の犠牲が払われた。レール敷設工事は、 “Panama R.R. cost the life of a man for every tie”(「パナマ横断鉄道はその使用する枕木の数だけの人命を費やせり」青山訳)とされる。

マラリアや黄熱病で末端労働者が倒れていった。逃亡した現場労働者も少なくない。カリブ海に浮かぶ島々から連れてこられた黒人であり、拉致された中国人である。この鉄道を初めて利用した日本人は、幕末の万延元年(1860)4月25日、江戸幕府の遣米使節団としてアメリカに渡った徳川幕府外国奉行・新見正興(しんみまさおき)一行である。一行は、サンフランシスコからアメリカの艦船で南下し、18日間の航海の後、パナマ港に到着し、そこからパナマ鉄道会社が特別に仕立てた8両連結の列車に乗り込み大西洋側のコロン市まで出た。

パナマ地峡に運河を開削し、大西洋と太平洋をつなごうとする計画は、スエズ運河を手掛けて世界的名声を博したフランス人外交官・フェルナン・ド・レセップスによって実現の方向に大きく動き出した。74歳とすでに高齢になっていたレセップスは夢を捨てず全力投球の構えであった。レセップスがスエズ運河を開通させた1869年頃のフランスは、パリ万国博覧会を開催し、エッフェル塔の建設などで世界の注目を集めていた。レセップスがスエズ運河成功の余勢を駆ってパナマで運河建設に入ったのは10年後の1880年であった。パナマ運河工事では、海面式運河方式が挫折し、閘門式に転換するが、その基本設計はエッフェル塔を設計したエッフェルが作成した。

ジャングルでの運河開削工事は開始され、フランスの技術者集団はもとより施設資材や大型機械類がヨーロッパ大陸から大西洋を渡って大量に送り届けられた。機関車、貨車、浚渫(しゅんせつ)船、輸送船が次々と海を渡った。熱帯雨林の地にスウェーデン製の除雪車までが投入された。大量の土砂を排除する機械としてであった。

レセップスは8年後には完成させる予定であったが、黄熱病やマラリアが猖獗(しょうけつ)をきわめて労働者が次々に倒れ、犠牲者は実に2万人を越えた。過酷を極めた重労働である。青山著「ぱなま運河の話」には現場労働者たちが“Eat drink and be merry for tomorrow you die”との自暴自棄の言葉が流行ったと記されている。「死ぬくらいなら酒を飲んで大騒ぎしよう」という訳だ。

現場のモラル低下に関して青山は、アメリカはフランスの二の舞にはならなかったことを帰国後の講演で語っている。「米人がこの運河の掘削に従事したる時には、物質的文明の進歩の御蔭を蒙った事多大なるは勿論ではありますが、米国人が仕事に誠実なる事と、道徳的観念に厚かった事とは竣工させる上にあずかって力ありし事を断言して憚(ルビはばか)らぬものであります」(機械学会「パナマ運河工事の話」(大正4年2月6日、第23回談話)。

運河ルートであるクレブラカット丘陵地の掘削工事では、雨期(3~12月)における大雨で地滑りが発生し、1886年ごろからは技術面や資金面でも再検討が迫られる事態となった。資金難やマラリアなどの風土病に加えて技術力の未熟、チャグレス川のたび重なる氾濫、クレブラカットの難工事などが重なり、老いたるレッセップスの一大計画は絶望的となった。

「神の見捨てた地」パナマと人類の戦いは、熱帯雨林のジャングルや猛獣と人類の戦いであり、何よりもマラリアを伝染させるハマダラ蚊(アノフェレス)の大群と人類の戦いであった。マラリアや黄熱病が、蚊の大群によって伝播することが医学的につきとめられていない時代である。瘴癘(しょうれい)の地とは、気候風土のため伝染病・風土病がまん延する土地を言うが、当時のパナマがまことに瘴癘の地そのものであった。

参考文献:拙書『技師 青山士』(鹿島出版会)、筑波大学附属図書館資料

(つづく)