米国政府から送られた金貨(実力が高く評価された。提供:高崎)

兄・紀元二の戦死

明治37年(1904)2月8日、日露戦争が勃発した。「富国強兵」「臥薪嘗胆(がしんしょうたん)」が政治スローガンとなった。軍備拡張の狂気の叫びだった。戦費確保のため増税が続いた。国民感情が、同戦争を国力・国費を使い果たしたギリギリの辛勝と理解ぜずに、空前の大勝利とあおられ浮足立ったところに近代日本の悲劇が始まった。明治38年(1905)3月7日に兄・市川紀元二(きげんじ)の日露戦争戦死の訃報が郷里の静岡県中泉の父徹からパナマの奥地の青山のもとに寄せられた。紀元二は妻と幼い息子を残して戦死した。彼は帝大卒業(工学士)では珍しい志願兵であり、当時中尉であった。奉天に近い李官堡の激戦で戦死したのである。享年32。

徴兵逃れの養子縁組までした虚弱な紀元二が、妻子を残したままなぜ進んで戦場に赴いたのか。紀元二は帝国大学卒の英雄と新聞ジャーナリズムによってもてはやされ「軍神」となった。日露戦争後、剣を抜いた突撃姿の勇士ブロンズ像(帝国芸術院会員・彫刻家・新海竹太郎作)が東京帝大運動場の南側に、また制服姿の立像(製作者不詳)が郷里の中泉駅東脇に建立された。

異郷の地パナマにいる青山は父徹への返信で言う。(現代語表記)。

「父親の送りし訃報に接するや児(私)の半身すでに奪われたるの意地(ここち)ぞする。然れども日本武士として恥ざるの戦死をなされたるの一事。せめてもの心慰である。児は阿兄(注:次兄)と幼時より争いたりき、論じたりき。又た、喜びたりき、悲しみたりき。今や彼の人遠く去りて呼べども応えず、招けども来たらず。唯滔々(とうとう)たるパナマ河声の音のみぞ聞く。武士や桜と共に散りにけり、嗚呼(ああ)」(『市川紀元二中尉伝』)。

この年、青山家にもう一つの「事件」が起きる。士の弟衡一(こういち)が山口高校(現山口大学)文科2年で中退し、士の跡を追うようにして5月18日に単身渡米してシアトルに住むのである。彼は労働者から身を起こし、日本から妻を迎えて農場や商店を経営しながら終生アメリカに住む。当時、アメリカ西海岸に住んだ日系移民はカリフォルニア州とワシントン州を中心に7万人を越えた。鉄道労働者、農場労働者、庭師などが主な職業だった。

青山士が熱帯雨林のジャングルの奥地で測量に従事している間に、アメリカ政府はパナマ運河早期実現のために計画を変更する。当初の海面式(シーレベル)運河案を取りやめて、3カ所の巨大な閘門(こうもん)で水位を調節する閘門式運河案を採用した。閘門とは船舶の円滑な運航と安全確保のために、運河の一定区間の水位を同じレベルに保ち、船舶を階段式に移動させる水門である。

船舶が運河を上流に向かって航行する場合を例に、閘門式ゲートの機能を確認したい。船舶が運河を上りゲートに差し掛かると、下流側のゲートのみ開かれ、上流側のゲートは閉じられる。これによってゲート内の水位が運河下流の水位と等しくなり、船舶はゲート内に進むことが出来る。船舶がゲート内側に入った後、下流側のゲートも閉じられて、両ゲートを閉ざした閘門式ゲートの内部の水位が調整される。この水位が運河上流側の水位と等しくなった時点で、上流側のゲートのみが開かれ、船舶は上流に向けてゲートを通過できるのである。船舶が運河を下る場合はこれとは全く逆の操作が行われる。

測量技師に昇進

青山はジャングルでの測量生活から大西洋側(カリブ海側)の港湾建設現場クリストバル工区に移り、月給125ドルの測量技師になった。この時代に、青山とアメリカ人技師が昇進した。ICCの評価によると、青山は「優秀な測量技師」であり、アメリカ人技師は「まずまずの仕事ぶり」であるが、二人とも同時に昇進・昇給した。月給150ドルとなる。外国人技術者では異例の昇給といえる。この頃、白人のアメリカ人青年技師(ゴールド組)、ラッセル・チャットフィールドらと親しくなる。青山とチャットフィールドは、フィーストネームで呼び合う仲となり、青山帰国後も手紙を交わしあう。

孤独が青山を襲う時もあった。青山は椰子の生い茂るパナマの宿舎で、故郷の友人(文学者・小山内薫)から書き送られた島崎藤村の詩「椰子の実」を読んだ時、胸にこみ上げるものがあり感慨無量になった。

1.名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実ひとつ
  故郷の岸を はなれて
  汝(なれ)はそも 波に幾月

2.旧(もと)の樹は 生いや茂れる
  枝はなお 影をやなせる
  我もまた 渚を枕
  ひとり身の 浮き寝の旅ぞ
 (中略)
 思いやる 八重の汐々
  いずれの日にか 国にかえらん
  郷愁の歌である。夜ひとり賛美歌を歌うこともあった。

明治39年(1906)6月、パナマ運河の心臓部のひとつガトゥン・ダムの巨大工事が開始される。設計陣が不足となり、測量技師として現場を指揮していた青山は、実力と勤勉な仕事ぶりが評価されて、設計班の一員になる。この人事異動はアメリカ人事委員会(在ワシントン)の委員長の許可が必要であった。パナマ運河には通商上の役割とともに軍事施設の役割もあり、設計という国家機密にかかわることを外国人技術者に担当させるべきかどうか、その可否を決裁の形でうかがったのである。許可の採決は明治43年(1910)4月5日に下された。

青山は大西洋工区の設計部の10人の設計技師のひとりに昇進した。ガトゥン・ダムや同閘門の測量調査と同時に洪水吐(こうずいばき)と閘門の設計を精力的に行った。アメリカ人技師からトランプ、チェス、ビリヤードに誘われることもあったが、青山はこれを断り仕事に打ち込んだ。この頃から、青山の緊急連絡先は、シアトル在住の実弟衡一宅となる。その理由は不明だが、帰国を意識しだしたのかも知れない。青山の月給は175ドルに昇給する。当時1ドルは2円程である。(今日の米価換算で約100万円の高給である)。同僚のアメリカ人技師に比べても遜色のない高水準であり、異例の待遇である。まことに「汗ト涙ヲ以テ獲タ」昇進である。

この間、明治39年3月、日米政府は紳士協定を締結し、翌年2月以降日本からアメリカへの移民を自主規制することになった。同年、運河開削工事現場で相次いで大地滑りが発生し労働者の人命を奪った。青山は明治44年(1911)3月からガトゥン閘門の湖水側の翼壁(よくへき)、下流の中央繋船壁の設計施工を手掛けた。パナマ運河関連資料によれば、当時大西洋工区の設計班には主任設計技師1人の下に9人の設計技師がおり、青山はこのうちの一人だったと思われる。中でもガトゥン村で工事中の給水施設である鉄筋コンクリート製のアグア・クララ濾過プラントは青山の設計施工である。運河中枢部の設計施工は任せられていないことに注目したい。