渡辺崋山像(椿椿山画、重要文化財)

田原(たはら)藩(1万2000石、現・愛知県田原市)は江戸期の渥美半島唯一の小藩である。渡辺崋山(かざん、1793~1841)は、田原藩家老である以上に、江戸後期において幅広い国際的視野をもった稀有(けう)な傑出した政治思想家の一人であった。同時に日本美術史に確固たる地位を占める当代一流の画家でもあった。

高い教養と近代的精神を身につけ、清貧の中で至誠(しせい)を通した崇高な生涯と人格はその作品に反映されている。崋山は蛮社(ばんしゃ)の獄に連座し、天保12年(1841)10月11日、郷里・田原の小山(池ノ原)に建てられた幽居で、のどとわき腹を刀で刺し自ら命を断った。数日前に記された数通の遺書が残された。

蛮社の獄で、崋山が幕府から処罰され蟄居(ちっきょ)を命じられた結果、彼が年寄役末席に登用されて以来手掛けて来た田原藩政改革は頓挫し、藩の実権は守旧派の手に帰した。だが崋山は、田原の在所蟄居の後もなお藩政の前途を案じ、真木重郎兵衛(まきじゅうろうべい)らの藩内の同志とひそかに気脈を通じていた。このことが藩主首脳部を刺激し反発をかった。たまたま門人福田半香が崋山の窮状を救うために、江戸で絵画展を開いて崋山の作品を頒布した。

この動きを知った藩首脳部は、崋山の不謹慎を非難し、同時にこのことが幕府の聞き及ぶ所となり、「近く藩主が問責される」との噂(デマ)を故意に流した。そのため崋山は、藩主に責任が及ぶことを恐れて自刃した。藩主に累が及ぶことを回避しようと決断したのである。享年49歳。短い晩年だった。

次の書簡は、遺書の中でも最も有名な、門弟・椿椿山(つばきちんざん)宛てのものである。(原則として原文のママ。読み下し文にする)。

「一筆啓上仕(つかまつ)り候。私事老母優養仕りたきより、誤って半香の義会に感じ、三月分迄認(した)ため、跡は二半に相成し置き候ところ(「二半」は中途半端の意)、追々此節の風聞、無実の事多く、必ず災ひ至り申すべく候。然る上は主人(藩主)安危にもかかはり候間、今晩自殺仕り候。右私、御政事をも批判致しながら、慎まざるの義と申す所に落ち申すべく候。必竟(ひっきょう)隋慢(だまん)自ら顧みざるより、言行一致仕らざるの災に相違なく候。是れ天に非ず、自ら取るに相違無く候。然らば今日の勢ひにては、祖母初め、妻子非常の困苦は勿論、主人定めて一通りには相済み申すまじくや。然れば右の通り相定め候。定めて天下の物笑ひ、悪評も鼎沸(ていふつ、いたる所で沸騰する)仕るべく、尊兄厚き御交りに候とも、先々(ルビまずまず)御忍び下さるべく候。数年の後一変も仕り候はば、悲しむべき人もこれあるべきや。極秘永訣かくのごとくに候。 頓首拝具
 十月十日                    ゝ(ちゆ、崋山の隠号)
 椿山老兄     御手紙は皆仕舞申候(始末をつけましたの意。焼却したと思われる)。」

「数年の後一変も仕り候はば」とあるのは、崋山がこの問題について見通しを十分に持っていたことを示す。やがて全く無実であったことは明らかになるだろうということを知りながら、彼はその時が来るまで待つことのできないおのれ自身の立場に切歯扼腕(せっしやくわん)したことだろう。この繊細な重臣は主人(藩主)に迷惑が及ぶことを恐れて、最悪の事態が発生する前に唯一の解決策として彼自身を地上から抹殺することを決めたのだった。「今晩自殺仕り候」という一句は、轟然たる響きをたてて、この遺書全体の中にそびえ立っている。悲運の極である。

大局的に見れば、風聞に追い詰められて、また自らを追い詰めた果ての「窮死」であるが、主観的には「憤死」としか言いようがない。

息子・立(たつ、当時10歳)宛ての遺書は簡潔だが、中に込められた思いの複雑さを思えば、凝然とせざるを得ない。

「餓え死ぬるとも、二君に仕ふべからず」と書き、「不忠不孝の父」と言う時、知識人崋山の頭にどれほどの憤怒が湧き立っていただろうか。崋山のような偉才をむざむざ自滅に追いやった田原藩の奸物はその後どのような人生を送ったのか。詳しい史料は入手できない。