デ・レーケの墓(アムステルダムの公共墓地)

オランダ人技師のパーマー批判

内務省はパーマー案の審査について専門家の同省お雇工師オランダ人ムルデルに委ねた。同年12月7日、ムルデルは土木局長西村に対して、パーマー案の採択は不可である旨の答申を出した。全面否定である。パーマー案の停泊地は市街地より遠すぎて不便であり、狭隘である。築堤の構造についても、海底の柔軟な部分において水中にイギリス方式のコンクリート・ブロックを打ち込み、長大堤を築くのは無理であると指摘した。ムルデルは停泊地の位置を市街地の前面に求め、停泊面積を2倍に広げ、築堤についても海底の柔らかい部分に良質の砂礫を敷き詰め、オランダ特有の築造法により粗朶(そだ)沈床を投じて堤の重量を海底に分散する方法を主張した。

結論として、パーマーの計画案はいかなる事情を勘案しても採用を勧めることは出来ないという手厳しいものだった。東京築港工事が決定しない間は、横浜築港は行うべきではなく、もし横浜が東京の海港に決まればその際は、ムルデル案に従って工事を施工すればよいと答申した。

内務省は改めてデ・レーケに工費160万円を限度とし、横浜築港の詳細な設計をするよう命じた。山県内相は全面的にオランダ人技師側の肩を持ち、デ・レーケ案を閣議採決するよう求めた。

外務省まで登場、その築港政策

内務省の動向に対して、横浜築港に強い関心を抱いていた外相・大隈重信は、独自に築港計画の準備を進めていた。築港完成後の船舶課税、埠頭税などをどのように賦課するのが適当か、欧米の諸港の例を参考にしながら検討を進めていた。同省は築港完成後入港する内外船を管理監督する権限を得られるか否かを検討した。埠頭を横浜港に建設した際、その使用法、管理権をめぐって先進国の権威をかさにきた外国商人から介入されたり、あるいはトラブルを避けるための細心の注意をはらって、築港の政治的・経済的得失を検討した。

築港の得失がしきりに議論されるようになったのは、財政難に陥っていた日本政府に、アメリカより幕末の下関事件の賠償金が明治16年(1883)4月還付されたため、資金手当ての目途がついたからであった。文久4年(1864)英仏米蘭連合艦隊が、長州藩の下関を砲撃し陸戦隊上陸して砲台を占領した、いわゆる下関事件が起こったが、幕府は4か国に総額300万ドルの賠償金を支払って決着をつけた。アメリカ政府は上院、下院の決議を以って全額78万5000ドル7セントを日本へ還付してきたので、日本政府は公債を買入れ利殖をはかりながら使途を考慮中であった。明治21年(1888)には返還金が124万円余りに達していた。外務省は返還金を開港場に埠頭を築造する資金に充当することに固まりつつあった。

下関事件の当事国のうち、アメリカ一国のみが使途にヒモを付けずに賠償金を返還した「義挙」に報いるためには、アメリカと日本との貿易ルートの一極たる横浜築港と神戸港改良工事に投下することこそ、その好誼にふさわしいと考えたのである。外務省当局はイギリス人技師とオランダ人技師が激しく対立していた埠頭工事計画案の良否に苦慮したが、オランダ人技師ムルデルの計画案(東京港改築)には消極的な評価を下すことになる。これは内務省の積極的評価とは対照的なものである。後に、大隈外相がイギリス人技師パーマー案の最大の擁護者となるに至る伏線をなしている。

明治21年4月23日、大隈外相は伊藤博文首相に「横浜港改築ノ件請議」を提出した。横浜築港が通商上急務であることを論じ、返還金が利殖金とともに135万円に増えたので、これを工費に充当すれば適切であるとしている。不足分は国庫より支出すればよく、横浜の築港完成後の収入予定金は、過去3年間の出入船舶、貨物量に対し、低率のトン税を課しても投下資本に対し1年あたり5分以上の利息に相当する金額および毎年の修繕費の雑費を収めることが可能であり、経済的にも採算がとれることを外務省は調査の上確かめているので、速やかに起工決定をされるよう求めた。

パーマーのオランダ人技師に対する反批判

横浜築港が確固たる財源を得て、政府自らの手で着工する大筋の方針は決定した。だが残る難問はイギリス人技師パーマー案か、オランダ人技師デ・レーケ案か、いずれの計画を選択するかにあった。内務省は省内の技師の審査報告に基づき、デ・レーケ案採用に一致し、山県内相が首相に採択請議を行った。大隈外相は内務省の策動に釈然とせず、デ・レーケ案を大臣秘書官加藤高明(後年首相)を通じてパーマーに閲覧させた。パーマーは自分の計画案がオランダ人技師によって否定され、日本政府がデ・レーケ案採択に傾いている形勢に激しい怒りを発し、オランダ人技師の見解に反批判を加え、大隈外相の正義心に訴えた。パーマーは測量方法、防波堤の構造、費用について自分の案を詳細に弁護し、オランダ人技師の得意とする粗朶堤の耐久力に疑問を呈するとともに、パーマー案のコンクリート製防波堤の堅固不朽なることを強調した。

パーマーは、加藤高明秘書官に「内密書」を渡し、オランダ人技師の卑劣な政治的裏工作やそれに左右されている日本政府の弱腰を痛撃した。個人的書簡の形をとっているので率直に自己の心情を吐露した。冒頭から内務省の不公平な取り扱い方を攻撃し、オランダ人技師の経歴や学歴が取るに足らないことを指摘した舌鋒は鋭い。内務省土木局の日本人技師はオランダ人技師に養育されたので、彼らの説に賛成するのは当然であり、その辺の事情を洞察すればオランダ説が優勢になる真相は明らかである、と指摘する。厳しい批判の応酬である。横浜築港の主導権を握ろうとするオランダ人技師から、パーマーは生命の危険を感じるほど脅迫感を覚えたとしており、国益を背景にした両者の確執は極点にまで達した。