実現して困ることを口に出さない「言霊」の思想はタブーを生み、ダブーを前提にした議論は形骸化する(イメージ:写真AC)

「言霊」の弊害は「和」を形骸化させる

前稿にて少し触れた「言霊」の弊害について、もう少し考えておく。「言霊」が日本の歴史・文化に脈々と根付く風土「和」と対極になり得ることは興味深い。そう筆者は感じている。

「和」とは、古くは十七条憲法の第一条に示された「和を以って貴しと為し」であり、五箇条の御誓文の第一条「広く会議を興し、万機公論に決すべし」に示されるように、独断で決めずに話し合って決めるべきだという教えにも通じるものである。

タブーを避けた話し合いは形だけを整えるものになる(イメージ:写真AC)

話し合うためには言葉が必要であり、その言葉に制限があっては、本来話し合いは成立しない。それはそうだろう。「言霊」を前提に、実現しては困ることを話題にできなければ、健全な話し合いにはならない。タブーを許し、そのことを避けた話し合いは、形だけ整えるだけの形骸化したものになるだろう。

平安貴族が治安維持機能を忌避し、都が荒廃していったのは、まさにこの弊害と考えられる。本来の話し合いとは、本質的な課題に皆の知恵を結集させるというものであるはずだ。

この弊害は歴史だけでなく、現代の我々にも大きく横たわっている。具体的な事例の一つが原子力発電問題だろう。

原子力発電に関しては、根強い反対派が存在する。一方で、最近は少々状況が変わってはいるが、それでも安全神話も存在する。この両者による話し合いは論理的に成立し得ない。

原発のリスクを語らず、原発の安全は語れない(イメージ:写真AC)

筆者自身は現実的な原発推進論者ではあるが、それでも安全神話を元にした、リスクを語らない姿勢には断固として異を唱える。確かに、リスクを語った瞬間に揚げ足を取られ、感情的な攻撃に晒される可能性は高い。しかし、それでもリスクを語らずに安全を語れるわけがなく、避けて通ることはあり得ない。

原発も他のリスクと同様に発生確率と発生時のダメージの大きさの積でリスクを評価するべきであるが、原発事故が起きた際のダメージは極大になるのは誰でも理解できるだろうから、発生確率を極小化するリスク対策が重要になる。それは、リスク発生要因を正面から議論しなければできるはずがない。

断っておくが、ここでリスク事象を語ったからといって、それがリスクを顕在化させる要因には決してならない。

リスク想定にタブーは禁物(イメージ:写真AC)

繰り返しになるが、リスク想定にタブーは禁物であり、想定外もあるべきではない。世の中で想定外といって逃げるのは、その内実は、考えられる事象を上まわるものに限り受容される領域のはずである。受容とは、そのリスクが万が一発生した場合は受け入れる想定との意味だが、こういうとゼロリスクを前面に押し立てた感情的な攻撃も激しくなるかもしれない。困ったことである。