平成12 年(2000 年) 度、私はある大学院のリスクマネジメント論の聴講生でした。雪印乳業の事故直後の7月上旬、担当教授から電話があり、「今日テレビ番組で雪印乳業の事故についてコメントをするのですが、あなたは雪印乳業は倒産すると思われますか」と尋ねられました。私は「先生、銀行が支援すれば大丈夫だと思います」と答えました。

左記のように、事故前の雪印乳業の手元現金・預金残高は平均月商の0.3 カ月分しかありません。経験則ですが、手許資金残高は月商の1カ月分くらいはあった方が良いと言われています。この考え方は、「リスク発生直後1 カ月くらいは手元資金で事業を繰り回せなければ対策を講ずる暇もない」という企業の財務担当者の実感に基づいています。

雪印乳業の手元資金残高は過小でしたから、私は「事故発生後、短期間で雪印乳業の手元資金は底をつき、金融機関の支援が無ければ、資金的に行き詰まる恐れがある」と考えていました。

前回も書きましたように、投資家も世間も雪印乳業がわずか半月程度で資金繰りに窮するとか、また万一、資金繰りに窮したとしても、その場合にメインバンクが支援しないなどということは全く考えていないと判断していましたから、「銀行が支援すれば大丈夫だと思います」と答えた訳です。同じ内容でも表現の仕方で世間に与える印象は大きく異なります。

私は、雪印乳業の広報ご担当の方から、色々ご教示を頂きました。事故後1 年ほど経って、大学院の担当教授と雪印乳業の広報ご担当の方をお訪ねしたときには、「今回の事故に際して、メインバンクの支援を得て、キャッシュフローの危機を乗り越えられて本当に良かったですね」と申し上げました。

ところが、平成14 年(2002 年)、国内の牛にBSE(狂牛病)に罹っているものがあり、政府が国産牛肉の買い取りを行った際、雪印乳業の子会社の雪印食品が、国外産牛肉を国内産と偽って農林水産省に買い取り請求した事実が、神戸の倉庫業者の内部告発によって発覚しました。本件は雪印乳業以外の食肉メーカーにも波及し、大手ハムメーカーの創業者が引責辞任するなど、他社にも大きな影響を与えましたが、雪印乳業には致命的なインパクトをもたらしました。

雪印食品の不正は再建途上の雪印乳業に致命的なインパクトを与えた
「雪印食品」㈱は平成14 年(2002 年)4 月末に解散のやむなきに至り、結果、雪印乳業の債務超過は198 億円に達し、雪印乳業は上場廃止の危機に陥りました。

メインバンクは、最初の事故発生からわずか2年9カ月後の平成15 年(2003 年)3月に300 億円の債務免除を行いました。実質2度目の破綻です。メインバンクは、都市銀行ではなかったので債務免除を行えましたが、サブメインの都市銀行は債務免除ではなく、債務の株式化200 億円を受け入れました。雪印乳業は、更に減資・増資を行って債務超過を解消し、上場を継続しました。

私は金融機関と株主の負担により上場を維持した事態について、メインバンクの好意を感じます。実質無借金の状態から急速に貸出しを行い、わずか2年9カ月で債務免除をしたわけですから、もしメインバンクが都市銀行だったら株主代表訴訟が提起されたかも知れない事態です。

それでは、メインバンクが事故の翌月に運転資金の支援を決定したのは誤りだったのでしょうか。これは大変難しい問題です。前述のように世間や投資家は雪印乳業が資金繰りで行詰まるとは毛頭考えていませんでした。世間は、バランスシートの静的な財務体質や収益ばかりを問題にします。自己資本の金額がいかに大きくても、そのうち手元に現・預金がどれだけあるかが問題です。

私はあるセミナーで、メインバンクのご関係者から「眞崎さんは、メインバンクが救済融資をしたのは 誤りだったと仰るのですか」と質問されたことがあります。

世間も投資家も暗黙のうちにメインバンクの支援を当然のことと考えていたと思われます。あのときメインバンクが支援しないで、雪印乳業が倒産していたら、世間は金融機関の冷酷さを非難していたと思います。しかし、支援は当然であったとしても、グループ関係会社を含めた貸出後の管理をもっともっと厳にすべきであったと私は考えます。 当時は新会社法制定前で、グループ関係会社に関する内部統制の規定は明文化されていませんでした。(注1)

経営陣は雪印乳業の本体に関しては内部管理体制・コンプライアンス等に関して十分な努力をされていたことと推察しますが、関係会社には浸透していなかったのではいか、特にコンプライアンスに関しては徹底が不十分であったと言わざるを得ません。

事故直後、社長が辞任、経営者不在の際、メインバンクご出身の役員が経営の中心となって頑張られたお陰で事業の継続ができたのですが、その後の子会社の不祥事でメインバンク出身の副社長さんは無念の引責辞任をされ、プロパーからも同情論が挙がりました。

本件は事故発生時における救済融資のリスクの大きさ、難しさを示しています。平成15 年(2003 年)3月ころは、まだ不良債権償却の話題が多く、300億円程度の債務免除は当時としては巨額という印象は無く、あまり話題になりませんでしたが、事故・災害発生時のメインバンクの救済融資に関して、極めてシリアスな問題を提起した事例だと思います。

・ 注1)(会社法施行規則)第100条
・  法第362条第4項第六号に規定する法務省令で定める体
制は次の体制とする。
五.当該株式会社並びにその親会社及び子会社から成る企業集
団における業務の適正を確保するための体制。

事故の牛乳業界へ与えた影響
雪印乳業の事故により、毎年低下していた牛乳の需要は更に減るだろうと言われました。雪印乳業の平成13 年3月期は33.5%の大幅売上減となりました。競合する森永乳業の売上は3.4% 増、明治乳業の売上は5.1% 増でさほど潤っていません。

事故の結果、牛乳の売上が減ったかについては、牛乳全体としては、平成13 年度は前年比1.7% の減で、平成12 年度の前年比2.4%減に比べ減少幅がかえって小さくなっています。この理由は、雪印・森永・明治は加工乳* 中心で、製造余力が少なく、消費者は各地の地場の牛乳メーカーの牛乳を好んで購入したので、加工乳の減少を上回った結果とみられます。

* 加工乳 牛乳を低価格の実現を目的として消費者の嗜好に合わせて加工したもの。(成分調整牛乳では、製品の原料となる牛乳から分離した脂肪分などをバターやチーズなどの加工品に転用できる分だけ、牛乳よりも価格が安くなる)

森永乳業㈱砒素ミルク事件について

昭和30 年(1955 年)3月の雪印乳業の中毒事故の直後、同年8 月に森永乳業㈱の「砒素ミルク事件」(粉乳に砒素が混入)が発生しました。昭和30 年5-8 月間の乳児の死者は131 名・被害者合計は12,103 名です。欠陥製品による大規模事故発生の走りであり、製造物責任法成立の端緒となりました。今日であれば、おそらく森永乳業は存続できなかっただろうと思われます。

事故翌期の森永乳業の業績は減収・増益です。粉乳の売上は10 億円減の22 億円になり、その他の製品の売上増6 億円で差引き4 億円の売上減となりましたが、純利益は1 億円の増です。事故処理費用差引き後4 億円の赤字。キャッシュフローは現預金減3 億円+ 社債発行5 億円で8 億円の悪化となっています。その後、後遺症対応の費用が発生していますが、平成12 年の雪印乳業の事例に比し、事故の深刻さにもかかわらず、影響の度合いは遥かに軽微でした。