軍部からマークされる

技監青山は軍部当局からマークされていた。青山を支えた技術官僚鈴木雅次は述懐する。

「内村鑑三の流れをくむ青山さんの高邁(こうまい)なヒューマニズムが2.26事件前夜にあたる軍部順応の世相に、入れられなかったのは当然である。そして内務省首脳部の一員として、反戦的と思われる言行に対し、激しい批判の起こるけはいがした。よって、先生(注:青山)が技監として発言される公の文章などにつき、事前に下見する役が第二技術課長であった私に当てられてきた。戦後の今から考えると、先生のお言葉(反戦思想)こそ、永遠の真理として正しかったのだ。それに対し時流に迎合しての浅薄な訂正を思い出すと、冷汗が出る」。

青山の具体的な反戦的言動を鈴木は記していない。青山も語っていないが、青山が横暴を極める軍部に批判的であったことは事実で、令嬢らには「人殺しをする陸軍の職業軍人や人を平気で裁く裁判官などには娘を嫁がせたくない」と語った。クリスチャンであるだけで特高警察や憲兵隊の監視の対象になったファシズムの時代である。青山の周辺は相当に当局から調査されたに違いない。とくに青山が心を痛めたのが、信仰を同じくする無教会主義クリスチャンに対する弾圧であり、反戦を訴えるキリスト教関係図書の相次ぐ発禁処分であった。弾圧の手を下したのは内務省警保局である。

「戦時下抵抗の研究―キリスト者・自由主義者の場合―」(同志社大学人文科学研究所編)によれば、無教会主義者で弾圧(出版物の発禁、発行停止、検挙、処罰など)を受けた知識人には、矢内原忠雄、藤沢武義、伊藤祐之、金沢常雄、政池仁らが挙げられている。東京帝大教授矢内原忠雄は青山の信仰上の友であった。昭和12年(1937)12月、矢内原は右翼教授陣の策動もあって辞表を提出し、大学を去らざるを得なくなった。