「皇道派」と「統制派」の対立

陸軍の「皇道派」と「統制派」の対立は2.26事件の前に一挙に表面化していた。天皇親政の下に元老重臣を排して国家改革を叫ぶ青年将校らの中心人物に祭り上げられていたのが、教育総監真崎甚三郎であり前陸相荒木貞夫陸軍大将だった。この真崎と林銑十郎の人事をめぐる意見対立から、昭和10年(1935)7月真崎が陸軍3重鎮の1つである教育総監を更迭され、後任総監には陸軍大将渡辺錠太郎がなった。それが、皇道派将校たちが渡辺を殺害する要因になった。

一方、皇道派に対して、林陸相が事務局長に起用した陸軍の秀才、永田鉄山を中心に、クーデターを排し、軍の統制を維持しながら政財界とも手を握って合法的に国家改造をしようとする「統制派=政策派」が軍の中心となりつつあり、東条英機や武藤章などの佐官が、永田と一緒に政策研究を続けた。

更迭されて軍事参議官となった教育総監時代の真崎は、「機関説排撃」と「国体明徴」を全陸軍に通達し、天皇機関説問題で在郷軍人を扇動したり、若い将校に機密事項を漏らしたりし、皇道派青年将校からは「救国の使命」を担う人物と目されていた。真崎が青年将校らに流した情報は、北一輝に師事した西田税たちの新聞「大眼目」に怪文書となって現れた。「天皇機関説を実行し皇軍を撹乱し維新を阻止し、国家壟断、国体破壊を強行せんとする陰謀」が、真崎更迭であり、その背後に統制派の黒幕、永田鉄山がいるというのだった。こうした文書に刺激されて8月12日、福山連隊付の相沢三郎中佐は、陸軍省軍務局長室に侵入し、「天誅!」と叫んで永田を刺殺した。叛乱軍の青年将校たちは愛国的行動として相沢に拍手を送った。林陸相は事件の責任を負って辞職し、後任には中立派といわれる川島義之大将が就任した。

「東朝」は9月5日付社説「陸軍大臣の更迭」で「陸相の進退に関し、軍事費の負担者たる国民が何等の発言権を持たず、またその発言を可能ならしむるに足る判断材料から一切遮断されねばならない理由はない」「国民が等しく念願切望するところは、林陸相の引退が断じて其主義方針の引退を意味しない事である」と、「統制派」支持、「皇道派」批判の論調を強めていた。

当時、侍従武官長を務めていた陸軍大将本庄繁の28日付「日記」には、本庄が軍事参議官代表荒木貞夫大将を武官長室に招き「此(こ)の不祥事を速やかに鎮定せよ」との「陛下の御意図」を伝え、「其の御心中」を述べている。「此れこそ武士道に反せずや、陸軍の云う所、解し難し」。

28日午後5時8分、三宅坂付近の叛乱将校以下は各所属部隊に復帰すべし、との戒厳令司令官の奉勅命令が出されており、真崎も天皇の真意を知って豹変し、「錦の御旗に弓引くものは自分が一線に立って攻撃する」と叛乱軍に伝えた。29日朝、山王下・三宅坂に叛乱軍の抵抗線は敷かれたものの「軍旗に手向かうな」と大書した戦車を先頭に戒厳部隊が包囲し、抵抗することなく帰順した。飛行機からの投稿勧告文「今からでも遅くないから原隊へ帰れ・・・」は、同司令部の頼みで「東朝」が5万枚刷り効果を生んだ。

事件は7月5日、第1次判決が下り、青年将校ら17人が死刑となって1週間後に執行された。真崎も裁判にかけられたが、昭和12年(1937)9月無罪となっている。

その後、ナチス・ドイツが呼号した欧州新秩序に呼応して、アジアに一大共栄圏を樹立する構想を描いた武藤章や東条英機の統制派は、やがて国政を左右して日本を太平洋戦争という破滅の渕に追い込んでいくのである。ところで、東京高等師範(現筑波大学)校長をつとめた講道館館長嘉納治五郎は、陸軍当局が「叛乱軍鎮圧部隊(戒厳令部隊)の前線駐屯所として、都心の講道館本館や宿泊施設を開放せよ」と迫ってきたのに対し、「講道館は柔道鍛錬のために国民に開かれているのであり、軍部には開かれていない」とがんとして拒否を続けた。結局、軍部は講道館の使用を断念した。教育家嘉納の平和主義は徹底していた。

参考文献:拙書『技師青山士』、『「言論の死」まで、「朝日新聞社史ノート」』(坂本龍彦)、講道館文献、筑波大学附属図書館資料。

(つづく)